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2013年9月

2013年9月30日 (月)

ホテルの条件:高級感や装備では補えないもの

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ホテルの条件:高級感や装備では補えないもの

- 出張中のホテルから -

現在、米国ノースキャロライナ州(NC)のCharlotteと、
カリフォルニア州(CA)のIrvineに出張中。
日曜日の朝、ホテルでこれを書いている。

日本とCAの時差が16時間、CAとNCの時差が3時間。
先週はそれぞれの場所にいる人たちと連絡を取りあいながら仕事を進めていたため、
自分自身の体調というよりも、
自分がどの時間帯にも所属しておらず、宙に浮いてしまったような
独特なボケ状態を体験してしまった。

「ここはどこ? 私は誰?」ではなく、
「私はどこ? 今はいつ?」という感じ。

これも一種の時差ボケと言うのだろうか?
NCとCA間の乗換え空港では、さらにその中間の時差もあったし。

 

さて、今回の出張では、3つのホテルを使った。

最初に泊まったところは、

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「ネットは有料。しかも回線スピードによって料金を変えている。
 冷蔵庫は小さなミニバースタイルで、
 すでに商品がびっちり入っており、消費した分だけ課金される。
 自分で買ってきたモノを冷やすスペースはない。
 朝食は別料金で、選択肢豊富なバッフェスタイル」

というホテルだったが、今泊まっているところは、

Img_6455s

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「ネットは無料(追加料金無)。
 キッチンには、大きな冷蔵庫と電子レンジ、
 食器、コーヒーメーカー、
 クッキングヒータに鍋、食洗機もある。
 洗濯機も乾燥機も無料で使い放題。
 部屋の机も、コンセントと照明が使いやすい位置にあり、
 広すぎるほど大きい」

といういわゆる滞在型モーテルだ。

 

ベッドのクオリティなどは明らかに前者の方がいいのだが、
個人的には後者のほうが居心地がいい。
ホテルにおけるリラックス感とはなんなのだろう。

 

これまで、国内海外、業務出張、プライベートの旅行で、
ずいぶん多くのホテルに泊まってきた。

ビジネス系とリゾート系で求めているものは大きく違うとも言えるが、
「寝るという無防備な状態を心地よくすごしたい」という最も基本的な部分は
どちらも同じだ。

「静かで、清潔で、安全で」

この三点をきちんと満たしてくれれば、私にとってはいいホテルだ。

どれか一つでも欠けていると、高級感や装備の充実みたいなものを持ってこられても
それで補うことはできない。

 

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2013年9月22日 (日)

「小鳥とコウモリの見分け方」

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「小鳥とコウモリの見分け方」

- 影が落ちるのは地面にだけではなく -

 

2013年9月19日は「中秋の名月」だったが、
今年は雲ひとつなく、ほんとうにきれいな月を眺めることができた。

今年の中秋の名月は満月で、と書くと
「えっ、満月じゃないことがあるの?」
と驚く方もいらっしゃるかもしれないが、
旧暦8月15日の月が「中秋の名月」なので、
正確には満月でないことが多いようだ。

実際、次に中秋の名月が満月と重なるのは8年後、
東京オリンピックの翌年2021年になるらしい。

(もう少し詳しく知りたいという方は、
 AstroArtsの「名月は満月とは限らない」を参照下さい)

 

さて、月を見上げるといつも思い出す詩がある。

若林真理子さんという当時、高校生だった女性の作。
「小鳥とコウモリの見分け方」という詩。

言葉の力にも、朗読の力にも、
そして物理的事実にも、文字通り圧倒された記憶のある
忘れられない詩だ。

 

  小鳥とコウモリの見分け方

                若林真理子

  小鳥とコウモリの見分け方は
  地面に影が落ちるか落ちないかです

  小鳥の影は地面に落ちますが
  コウモリの影は
  薄く羽の後ろに貼り付いていて落ちてこない

  わたしの庭には小さなとかげが棲み
  空には沢山のコウモリがいる
  わたしは一度も動物を飼ったことはありませんが
  命の重みを全く知らないとは思いません

  落ち込んだ時に見上げた空の色が
  風とまじりあってとても綺麗でした
  それはまだ人が名前をつけていない美しい色

  どこへいっても
  わたしの影が後ろにある

  かつて空を見上げた時
  あの月に落ちている影が
  地球の影だと知った時
  そこに自分の影もあるのだと思って
  影が落ちるのは地面にだけではなく
  空の上にも落ちているのだと思った

 

まさに「やられた」という衝撃。

前半のもつパワーもすごいが、一番驚いたのは最後。
月蝕が地球の影によって起こるのであれば、
自分の影が月に落ちることもある!

なんという視点だろう。

以後、月を見上げるたびに思い出す。

「影が落ちるのは地面にだけではなく、空の上にも落ちている」

 

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2013年9月15日 (日)

「なぜ車輪動物がいないのか」

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「なぜ車輪動物がいないのか」

- 車輪が働くための「大」前提条件 -

 

前回は、子供向けの絵本、
本川達雄著「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」を覗いてみたが、

今日は本家、本川達雄著「ゾウの時間、ネズミの時間」中公新書
(以下水色部、引用・抜粋)
の中から一つのトピックスを紹介したい。

この本、題名の影響が強すぎるのか、

「数年しか生きないネズミも、100年近い寿命をもつゾウも
 一生の間に打つ心拍数はだいたい同じ」

ということが書かれた本なんでしょ、と
ひと言で語られてしまう傾向が強いのは残念なことだ。

心拍数の話は、本の冒頭に登場する話題のひとつにすぎない。

絵本からの紹介で書いた通り、体重が増えると、
心拍だけでなく多くのものがその動物において、ゆっくりになる。

例を挙げれば、

 寿命も、
 おとなのサイズに成長するまでの時間も、
 性的に成熟するのに要する時間も、
 息をする間隔も、
 心臓が打つ間隔も、
 腸が一回じわっと蠕動(ぜんどう)する時間も、

皆そうなっているが、これらがすべてではない。他にもいろいろある。
しかも、面白いことに、どれもが、
「1/4乗則」と呼ばれる「体重の1/4乗に比例」している、に則っている。

つまり全部が同じように遅くなる。

 

したがって、たとえば体重が10倍になると、時間は1.8倍( =10E(1/4) )になることになる。

それぞれの動物にはそれぞれの時間がある、のだ。
と、ここまでは前回の繰り返し。

 

今日は心拍数とはまったく違う、でもさらに新たな視点を与えてくれる

「なぜ車輪動物がいないのか」

というトピックスを紹介したい。

生物界には車輪がない。

身の回りにある道具類は、よく調べてみると、
その原理は生物がとうの昔に発明していたものばかりの中で、
車輪は例外的に、人類独自の偉大な発明なんだ、と学生時代に習って、
なるほどと感心した記憶がある。

・・・

まわりを見回しても、車輪を転がして走っている動物には、
まったくお目にかかれない。
陸上を走っているものたちは、二本であれ、四本であれ、六本であれ、
突き出た足を前後に振って進んでいく。

 

顕微鏡でも見るのがむつかしいほど小さなバクテリアが、
毛のはえた車輪を回転させながら泳いでいた、という発見もあるにはあるが、

われわれが肉眼で見ている動物たちに、
なぜ車輪を使うものがいないのだろうか。

 

生物界に車輪がない理由を考えてみよう。

 

そもそも、我々が自動車、自転車等、
車輪を使っていることのメリットとはなんだろう。

車輪のメリット : エネルギー効率がいい。

一般的にいって、なぜ車輪がこれほど好まれるかといえば、
エネルギー効率が大変に良いからである。

足を前後に振って歩くやり方では、前に振った足を止めて、
逆に後ろへ振りと、振る方向を変えねばならない。
そのときにエネルギーがいる。
また、足を上げたり下げたりするわけだから、
これは重力に対して余計な仕事をすることになる。

ところが回転運動ならば、回転方向は一定であり、上下動もない。
前後・上下に振り動かす余計なエネルギーは使わなくてよい。

エネルギー効率はいいものの、問題も多い。


車輪の問題点1 : 凸凹に弱い。

車輪ほ平坦なかたい道では威力を発揮するが、凸凹ややわらかい地面では、
ほとんど役に立たないのである。

 それでほ、どのくらいの凸凹があると車輪は使えないのだろうか。
こういうことに関しては、車椅子に関する資料がそろっている。
車輪の直径の1/4までの高さの段ならば、
体を前後させて車椅子の重心を動かすことにより、
なんとかクリアできる。

それ以上高い段は越すのがむずかしく、
車輪の直径の1/2より高い段を越すことは原理的にできない。


車輪の問題点2 : やわらかい地面に弱い。

車輪は、連続的に地面との摩擦を保ちながら地面をずって回っていく。

だから、地面がふかふかしたりネチャネチャしたりすれば、
回転に対する抵抗がすぐに大きくなって回りにくくなる。

たとえば、泥道はコンクリートの道路に比べて回転の抵抗は5~8倍になるし、
砂の上なら10~15倍にもなる。


車輪の問題点3 : 壁を登れないし、ジャンプもできない。

面との摩擦力がないと働けないので、垂直な壁を登ることはできない。
手足なら、しがみついて登れる。

車輪はジャンプすることもできない。
車椅子の例では、幅20センチの溝でも越えられない。
マウンテン・シープは14メートルもジャンプして谷を越す。


車輪の問題点4 : 小回りがきかない。

まず、向きを変えるのがむずかしい。
車椅子の場合、180度回転するのには、150センチ四方もの空間がいる。

また、二台の車椅子がすれ違うには、二台の幅だけの道幅がどうしても必要となる。
ヒト二人がすれ違うときを考えてみれば、横向きになってすれ違ってもいいし、
やむを得なければピョイと飛び越してもいいので、車とはえらく違う。

ただ速いばっかり速くても、小回りがきかなけれは、
木立や岩などの障害物の多いところでは、車輪は立ち往生してしまうだろう。

車輪動物が二匹狭い山道でばったり出会ったら、すれ違うこともできず、
さりとて廻れ右してもどることもできず、
二匹とも進退きわまるということに、ならぬともかぎらない。

もちろんこれまでも、生物界に車輪がない理由は、
いろいろ考えられてきた。


車輪の問題点5 : 軸を作ることがむつかしい。

その理由の一つに、回転する軸を作ることのむずかしさがある。
回転している軸には、軸をねじる力がかかるが、それに耐えるには、
非常にかたい素材を使わねばならない。
そんな素材を生物は作れるだろうかという疑問が提出されてきた。

事実、生物は、ねじれという変形をさけているように見える。


車輪の問題点6 : 回転するものへのエネルギーの供給がむつかしい。

車輪と軸受けとの間は、必ず途切れていなければ回転しつづけられないが、
この途切れた空間を越してエネルギーを軸に与えるには、かなりの工夫がいる。
つまり、回転しているものに、
どうやって外からエネルギーを供給しつづけるかの問題である。

 この問題はバクテリアでは解決ずみである。
バクテリアは鞭毛(べんもう)をくるくる回転させて泳ぐが、
このモーターは水素イオンの流れがエネルギー源となっている。

バクテリアは体の内と外との間に水素イオンの濃度差を作り、
この濃度差によって、
濃い方から薄い方へと水素イオンがモーターを通って移動していく。
つまり拡散の原理を使ってエネルギーを供給しているわけである。

ただし、この方法が使えるのは、
数ミクロン(ミクロンは千分の一ミリ)の大きさが限度で、
それ以上にサイズが大きくなると、拡散は使えず、
別なやり方を開発しなければならない。
これもサイズの大きいものに車輪がない原因の一つかもしれない。

 

さて、再度、問題点1から4を見てみよう。

車輪は、硬くて平らな地面でのみ効率はいいものの、
凸凹にも、やわらかい地面にも、壁にも、溝にも弱く、ジャンプもできない。
しかも、小回りもきかない。


それでも、自動車を始め、我々がここまで車輪を「便利なもの」として
使っているのは、使えているのはどうしてだろう。

 こう見てくると、車輪というものは、われわれヒトのような大きな生き物が、
山をけずり、谷をうめて、
かたい平坦でまっすぐな幅広の舗装道路を造ってはじめて使い物になる、
ということが分かると思う。

 舗装道路を帝国内にあまねく造り、車を走らせたのはローマ人である。
しかし帝国が崩壊し、道路の維持補修がなされなくなった後には、
その道をラクダやロバが背に荷物を積んで歩いていた。
がたがたの道では、車は使えなくなったのである。

 広く、まっすぐで、かたい道。
階段のない、袋小路のない、道幅の広い町並み。

これらを整備したから、初めて使えるのだ。

「ロサンゼルスからニューヨークまで車で行く」
「青森から鹿児島まで車で行く」

そういうことを、我々はいまやさり気なく口にするが、
それは、
ロサンゼルスからニューヨークまでの間に、
青森から鹿児島までの間に、
一箇所たりとも (たとえ30cmであっても) 段差も溝もない、
そういう道が確保されている、を前提とできるからこそ
初めて成り立つ会話なのだ。


数千キロにわたって一箇所たりとも段差も溝もない。

 

本川さんは、

車というものは、そもそも環境をまっ平らに変えてしまわなければ働けないものである。
使い手の住む環境をあらかじめガラリと変えなければ作動しない技術など、
上等な技術とは言いがたい。

と書いているが、「環境を変えなければ使えない技術」、
そういうふうに車輪を見てきたことはなかった気がする。

逆に言えば、「車輪用に」よくここまで徹底して環境を変えてしまったものだ、とも思う。

 

 

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2013年9月 8日 (日)

「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」

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「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」

- 動物は、それぞれの時間の中で生きている。 -

 

今日は子供向けの絵本から。

本川達雄著 「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」 福音館書店
(以下水色部とグラフは引用・抜粋、ひらがなは一部漢字に)

この本は、
同じ著者による中公新書のロングセラー「ゾウの時間 ネズミの時間」
を元にしたものだが、今回は「絵とき」の方に内容を絞って紹介したい。

(照らし合わせると両者で一部数字が違っている部分があるが、
 主意に影響はないので、そのまま引用している)

 

さて、始めよう。

背たけが小人の12倍ある大男ガリバーが小人国に流れ着いた。

さて、ガリバーにどの程度の量の食事を用意したらいいだろうか。
小人が食べる量を1としたとき、身長が12倍のガリバーは
どれくらいの量、食べると考えられるだろうか?

 

【身長比説】

身長が12倍なのだから12倍。

 

【体重比説】

体重は体積、つまり長さの比の3乗に比例するから
  (12x12x12)=1728倍
ある。
だから1728倍。

  (絵本では、一辺1のサイコロが、一辺2のサイコロには8個入ることを示し、
   2x2x2=8を説明することで「3乗に比例」を理解させようとしている)

 

【表面積比説】

恒温動物の熱は、体の表面を通して外へ逃げていく。
食物を食べて体の中で燃やして、逃げた分の熱をつくりだねばならぬ。
体の表面積とともに逃げる熱がふえるから、
表面積の広いぶん、たくさん食べなければならない。

表面積は、長さの比の2乗に比例するから
  (12x12)=144倍
ある。
だから144倍。

  (絵本では、一辺1のサイコロの表面積は(1x1x6面=) 6、
   一辺2のサイコロの表面積は(2x2x6面=) 24、で6の4倍であることを示し、
   2x2=4倍を説明することで「2乗に比例」を理解させようとしている)

 

さあ、どれが正解だろうか?

正解は185人分。

表面積比説が一番正解に近い。

 

【体重と食べる量の関係】

体重と食べる量の間には、決まった関係がある。

こんなグラフが載っている。

010s1

理工系の学生にでもならないと書く機会のない
両対数のグラフを小学生向けの絵本にさらりと載せてしまっている。

そう言えば、先日、現役の工学部の学生とグラフについて話す機会があった。

いまやパソコンのアプリの [両対数] のボタンを押すだけで
一発でグラフが書けるようになっているため、
(慣れないと書きにくい)両対数のグラフ用紙に、
ひとつひとつ手でプロットする機会は、
工学部の学生ですらほとんどないようだ。

 

閑話休題。

【ゾウは小食?】

ゾウはネズミより10万倍も重いけれど、食べる量は約3000倍。
ゾウって意外と小食なんだ!

小食だということは、体重1キログラムあたり、どれだけ食べるかを見るとはっきりする。
大きい動物ほど、体重のわりには食べない。

011s1

これを見ると、大きい動物ほど体重のわりには食べないことがよくわかる。

小さいものほどせかせかしている。
しょっちゅうエサを食べている。
ネズミはたった4日で自分の体重と同じ重さのエサを食べてしまうが、
ウシは自分と同じ重さのエサを食べるには、なんと1か月以上もかかる。

小さいものは、せかせか生き短い一生を終え、
大きいものは、長い一生をゆったりとおくる、
一見そのように思えるが、そう単純に比較していいのだろうか。

 

ぼくたちの心臓は、一分間に60-70回打つ。一秒にほぼ1回、ドキンと打つ。
ハツカネズミは、一分間に600回近く打つ。
ゾウは一分間に30回。

大きいものほど、ゆっくりと心臓は打っている。

心臓が一回打つ時間と体重の関係と
息を出し入れする時間を、いっしょのグラフに書くとこうなる。

020s1

【ゾウもネズミも一生の間に心臓は15億回】

グラフの傾きが同じ。
つまり、ゆっくりになるなり方が心臓も肺も同じ。

呼吸の間隔の時間を、心臓のドキドキの時間間隔で割ると、答えは4。

体重が増えるにつれて、時間はゆっくり長くなる。
ゆっくりになるなり方は、肺も心臓も同じ。
ほかの時間も、同じようにゆっくり長くなっていく。

寿命も同じ。

ネズミでもゾウでも、体重に関係なくどの動物も、
息を一回吸って吐く間に、心臓は4回打つ。

ゾウはネズミより、ずっと長生きだけれど、
一生の間に心臓が打つ回数は、ゾウもネズミも同じなのだ。

心臓が15億回打ったら、みんな死ぬ。

 

ゾウは、体重あたり小食だった。でも、ネズミよりもずっと長く生きる。

【体重あたり、一生の間に食べる総量も同じ】

体重あたりの食べる量は、体重が増えると少なくなっていったよね。
この少なくなり方が、時間のゆっくりになるなり方と、なんと同じなのだ。

だから、ネズミもゾウも、
1キログラムの体重にあたりにして比べれば、一生に食べる量は同じ。

一生の間に、活動する量(使用するエネルギー量)も同じ。

 

動物にとっての時間の基準とはナンなのだろう。

ネズミの一生は数年。
ゾウはその何十倍も長く生きる。

ネズミはすぐに死んでしまって、かわいそう?

われわれの時計を使えばそうかもしれない。

でも、もしそれぞれが動物の心臓が一回打つ時間を基準にすれば、
ゾウもネズミも、まったく同じだけ、生きて死ぬことになる。


短くても長くても、
一生を生き抜いた感想は、案外同じかもしれない。

ネズミにはネズミの時間。ネコにはネコの時間。
イヌにはイヌ時間。ゾウにはゾウの時間。
動物たちには、それぞれにちがった自分の時間がある。

それぞれの動物は、それぞれの時間の中で生きている。

 

 

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2013年9月 5日 (木)

「おーい でてこーい」

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「おーい でてこーい」

- 都会の汚れを洗い流してくれる穴 -

 

9月になったものの暑い日が続いている。

だから、というわけではないが、
今日はとびきり怖い話をひとつ紹介したい。

原発事故をきっかけに思い出して以来、
ニュースを聞くたびに頭の中で再生されてしまう。

星新一著「ボッコちゃん」(新潮文庫)にある
「おーい でてこーい」
という題名のたった6ページのショートショート。
(以下水色部、抜粋・引用)

こんなふうに始まっている。

 台風が去って、すばらしい青空になった。

 都会からあまりはなれていないある村でも、被害があった。
村はずれの山に近い所にある小さな社(やしろ)が、
がけくずれで流されたのだ。

・・・

 その時、一人が声を高めた。
「おい、この穴は、いったいなんだい」

 みんなが集ってきたところには、
直径一メートルぐらいの穴があった。

のぞき込んでみたが、なかは暗くてなにも見えない。
なにか、地球の中心までつき抜けているように深い感じがした。

 「キツネの穴かな」
 そんなことを言った者もあった。

 「おーい、でてこーい」

 若者は穴にむかって叫んでみたが、底からはなんの反響もなかった。
彼はつぎに、そばの石ころを拾って投げこもうとした。

 「ばちが当るかもしれないから、やめとけよ」

 と老人がとめたが、彼は勢いよく石を投げこんだ。
だが、底からはやはり反響がなかった。

村人たちは、木を切って縄(なわ)でむすんで柵(さく)をつくり、
穴のまわりを囲った。
そして、ひとまず村にひきあげた。

 

穴の話を聞きつけて、
新聞記者、学者、やじうまが次々にやってくる。
駐在所の巡査は、穴に落ちる者があるといけないので、
つきっきりで番をした。

 新聞記者の一人は、長いひもの先におもりをつけて穴にたらした。
ひもは、いくらでも下っていった。

・・・

 学者は研究所に連絡して、高性能の拡声器を持ってこさせた。
底からの反響を調べようとしたのだ。
音をいろいろ変えてみたが、反響はなかった。
学者は首をかしげたが、みんなが見つめているので、やめるわけにいかない。

 拡声器を穴にぴったりつけ、音量を最大にして、長いあいだ鳴らしつづけた。
地上なら、何十キロと遠くまで達する音だ。
だが、穴は平然と音をのみこんだ。

そこに、「社を建ててあげますので、穴をください」という利権屋が現れた。

 その利権屋の約束は、でたらめではなかった。
小さいけれど集会場つきの社を、もっと村の近くに建ててくれた。

 新しい社で秋祭りの行われたころ、利権屋の設立した穴埋め会社も、
穴のそばの小屋で小さな看板をかかげた。


さぁ、手に入れた穴をどうしようというのだろう。

 利権屋は、仲間を都会で猛運動させた。

すばらしく深い穴がありますよ。
学者たちも、少なくとも五千メートルはあると言っています。

原子炉のカスなんか捨てるのに、絶好でしょう。

 官庁は、許可を与えた。
原子力発電会社は、争って契約した。

村人たちはちょっと心配したが、数千年は絶対に地上に害は出ないと説明され、
また、利益の配分をもらうことで、なっとくした。
しかも、まもなく都会から村まで、立派な道路が作られたのだ。

 トラックは道路を走り、鉛の箱を運んできた。
穴の上でふたはあけられ、原子炉のカスは穴のなかに落ちていった。

これ以降、あらゆるものがこの穴に捨てられる。

 外務省や防衛庁から、不要になった機密書類箱を捨てにきた。

・・・

 穴は、いっぱいになるけはいを示さなかった。
よっぽど深いのか、それとも、底の方でひろがっているのかもしれないと思われた。
穴埋め会社は、少しずつ事業を拡張した。

 大学で伝染病の実験に使われた動物の死体も運ばれてきたし、
引き取り手のない浮浪者の死体もくわわった。
海に捨てるよりいいと、都会の汚物を長いパイプで穴まで導く計画も立った。

 穴は都会の住民たちに、安心感を与えた。
つぎつぎと生産することばかりに熱心で、あとしまつに頭を使うのは、
だれもがいやがっていたのだ。
この問題も、穴によって、少しずつ解決していくだろうと思われた。

 婚約のきまった女の子は、古い日記を穴に捨てた。
かつての恋人ととった写真を穴に捨てて、新しい恋愛をはじめる人もいた。

警察は、押収した巧妙なにせ札を穴でしまつして安心した。
犯罪者たちは、証拠物件を穴に投げ込んでほっとした。

 

機密書類、動物の死体、浮浪者の死体、都会の汚物、古い日記、
かつての恋人ととった写真、にせ札、証拠物件、
穴は、なんでも吸い込んだ。

 穴は、捨てたいものは、なんでも引き受けてくれた。
穴は、都会の汚れを洗い流してくれ、海や空が以前にくらべて、
いくらか澄んできたように見えた。

 その空をめざして、新しいビルが、つぎつぎと作られていった。

そんなある日、小さな出来事が起こったことだけを記して小説は終わっている。

 ある日、建築中のビルの高い鉄骨の上でひと仕事を終えた作業員が、
ひと休みしていた。
彼は頭の上で、

「おーい、でてこーい」

 と叫ぶ声を聞いた。

しかし、見上げた空には、なにもなかった。
青空がひろがっているだけだった。
彼は、気のせいかな、と思った。

そして、もとの姿勢にもどった時、声のした方角から、
小さな石ころが彼をかすめて落ちていった。

 しかし彼は、ますます美しくなってゆく
都会のスカイラインをぽんやり眺めていたので、
それには気がつかなかった。

 

怖い。
あまりにも怖すぎる。

星さんがこの小説を発表したのは55年も前のことだ。

 

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