「モリー先生との火曜日」
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「モリー先生との火曜日」
- ジャズに名曲なし、名演奏あるのみ。 -
「モリー先生との火曜日」という芝居を8月18日、下北沢・本多劇場で観た。
加藤健一・義宗親子による二人芝居。
あらすじについては、加藤健一事務所のHPに
以下の通り紹介されている。(以下水色部、引用・抜粋)
人気スポーツライターのミッチ・アルボム(加藤義宗)は、
複数の新聞やラジオ、テレビ等で活躍し、多忙なスケジュールをこなし、
順風満帆の日々を駆け抜けていた。
ある日、偶然見ていた深夜のニュース番組「ナイト・ライン」で、
大学時代の恩師モリー・シュワルツ教授(加藤健一)が
ルー・ゲーリック病(筋萎縮性側索硬化症/ALS)という難病である事を知る。
画面の向こうで語る老教授の姿に胸を打たれたミッチは、
大学を卒業してから初めてモリーの自宅を訪ねる。
16年ぶりに再会したモリーは、歩行器姿で、
しかし学生の頃と変わりなくミッチを迎えてくれた。
最初は余命わずかな恩師に義理を果たすため、
一度だけの訪問のつもりであったが、
「君は自分自身に満足しているかい?」
モリーの言葉が脳裏から離れないミッチは、再びモリーに会いに行く。
容態が悪化し車イスに座ったモリーだったが、
ミッチの訪問を大歓迎する。
不自由な体で一生懸命ミッチとの大切な時間を楽しむモリー先生。
毎週火曜日、ミッチは多忙なスケジュールを調整して
デトロイトからボストン行きの飛行機に乗り、
モリー先生の自宅に通うようになった。
そしてたった二人だけの講義が始まる。
原作は実話に基づくノンフィクションで、
米国で大ヒットした本らしい。
加藤親子の芝居も、全国をツアーで回り、
今回すでに60回以上も上演されているという。
モリー先生最後の講義のテーマは、
「死」「恐れ」「老い」「欲望」「結婚」「家族」
「社会」「許し」「人生の意味」について・・・・
とあるように、会話劇ゆえ
「君は自分自身に満足しているかい?」
とのミッチへの問いかけから始まるモリー先生の言葉そのものが
まさにこの芝居の核となっている。
ただ、個人的な感想を正直に書くと
言葉の内容そのものにそれほど大きく心は動かされなかった。
「死ぬというのは悲しいことだ。
だが、不幸せに生きているっていうのは、
もっともっと悲しいことだ」
「相手が100%間違っていて、自分が100%正しいと思っても、
相手を許しなさい」
「大切な事は出し惜しみせず、すぐに言うべきだ。
取っておくから伝えられなくなる」
「謙遜のあまり、自らの輝きを隠してはいけない」
原作はベストセラーとのことだが、
本で読んでいたら途中で閉じてしまったかもしれない。
こういうセリフは好みの問題なのだろうが、
翻訳調はいいとしても、
テーマごとにあっちこっちから持って来たような
不安定感、混在感、既視感があって、どうも落ち着かない。
名言集ではないのだから、ちょっと気の利いた言葉を、
切り貼りのように次々と並べればいいというものではない。
「つまりは、おもしろい芝居じゃぁなかった、ってこと?」
と聞かれそうだが、ところがそれがそうではないのだ。
さすが加藤健一さん。これだから芝居はおもしろい。
病気の進行と共にどんどん体が不自由になってくるモリー先生。
最後はまさに寝たきりの状態なので、あの姿勢で発声し、
演技をすることはそれはそれでたいへんだったと思うが、
そういう不自由さを越えて伝わってくる「声」と「間」が、
セリフの内容以上にモリー先生の思いを運んでくるのだ。
カタログや吊しで見た限りでは、あまりいいと思わなかった服が、
ふさわしい人が見事に着こなすことで、
「えっ、この服ってこんなに素敵だったンだ」
と気がつくような感覚とでも言うか。
こうなると何を着てもカッコイイ。
言葉だけをとると寄せ集めのようなセリフも、
どう着こなすか、にひき寄せられると、
混在感が気にならないどころか、むしろ楽しみになるほど。
まさに死が直前に迫って、
永遠の別れとなれば、もう話ができなくなる、というミッチに、
「返事はできないけれど、ちゃんと聞いているから」
とおだやかに、ちょっとゆっくりした調子で話すシーンがある。
この「聞いているから」の言葉の響きのなんと優しいことか。
「ジャズに名曲なし、名演奏あるのみ」
と言うが、まさに名演奏の舞台だったと思う。
どんなにいい響きも、その場限りで完全に消えてしまう。
でも、いいライブは、
聴衆のなかにいつまでも「響き」だけを残している。
どんなメロディだったか、どんなセリフだったかは
ライブの経験においてはあまり重要ではないのかもしれない。
響きの残るお芝居だった。
ロビーには、1980年「審判」から始まる加藤健一さんの
これまでの芝居のチラシが壁一面に貼ってあった。
個人的に思い出深いチラシもある。
まさにさまざまなセリフを着こなして、
その独自の世界を舞台で見せてくれたプロの仕事の歴史だ。
なつかしそうに覗きこんでいるのは古くからのファンなのだろう。
「あっ、これね...」と指差しながら
連れに思い出話をしているときのファンの顔は、
モリー先生のようにいい表情をしている。
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いい舞台だったようですね。
演出が良かったということになるのでしょうか。
私はドラマや映画を観ることが多いので、その分野で言うならば、脚本はたいしたことがないのに全体の雰囲気が妙に心に残る作品に出会うことがあります。演技者の何気ない仕草や、役者の作る「間」、そして、演技の背景などがドラマの良さを形づくることがありますね。
特に舞台では、場が限られているので、演出が作品の良否を大きく左右するのでしょう。
私は根っからの出不精でなかなか劇場へ脚を伸ばすことが少ないのですが、たまには「観に行く」ことも必要ですね。
投稿: Ossan-taka | 2013年8月30日 (金) 19時34分
Ossan-takaさん、
コメントをありがとうございます。
二人だけの静かな舞台でしたが、
ユーモアを忘れないモリー先生のおだやかな雰囲気は
「死」を暗いものにはしていませんでした。
世代間で影響を与えあうことにより満たされる「なにか」を、
送る側と受ける側、双方に感じさせる親子の演技だったと思います。
音楽も舞台も「生」はいいものです。
投稿: はま | 2013年8月31日 (土) 13時35分