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2013年5月29日 (水)

古書店巡りの夢

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古書店巡りの夢

- 淋しさをひとに言うな。 -

 

「初老」とは何歳の人を言うかご存知だろうか。
辞書で引くと「四十歳の異称」とある。
初めて知った時は、かなりショックだった。

本人が老かどうかはともかく、
老いを意識できるようになるのには、
やはりある程度の年齢が必要な気がする。

老眼のような、だれにでも説明できるようなことではない部分で、
老いを感じた瞬間の、ちいさな戸惑いの体験が必要だと思うからだ。

 

久世光彦さんが、「ある秋の一日……」という文章を
雑誌「ノーサイド」(1992年11月号)に寄せたのは、
久世さんが57歳のとき。(以下水色部、引用・要約)

57歳なんてまだまだ先、という方も、
とっくに過ぎてしまったよ、という方も、
書いている久世さんの年齢を意識しながら読んでいただきたい。

 

ある秋の一日……
    久世光彦 (くぜてるひこ:テレビ・ディレクター エッセイスト)

 お金をたくさん持って、秋の一日神田の古書店を巡り歩き、
欲しいと思った本をみんな買えたらどんなに嬉しいだろうといつも考えていた。

ちょっと大げさに言えば、それは積年の夢だった。
私には古書蒐集趣味はまるでないから、
欲しい本と言ったって一冊何万円もする稀覯(きこう)本のことではない。

刊行当時お金がなくて買えなかったり、
迷った挙げ句買いそびれていまは絶版になっている本とか、
子供のころ親の目を盗んでこっそり読んだ本とか、
せいぜいそんなものなのだが、それでも夢は夢だった。

 だからある秋の一日、
一生その程度の望みも遂げられないで終わったとあってはあまりに残念なので、
だいぶ無理をした大金を懐中に神田へ出かけたことがある。
予(かね)てからイメージしていた通りの明るい九月の朝だった。

「余裕のあるお金を持って、神田の古書店巡り」
なんともいい夢だ。
その日のワクワク感が伝わってくる。

神保町の裏通りに車を置いて、
買った本がある分量になったらそこへ戻って夢の一部を積み込み、
それからまた次の店へ行くという段取りもちゃんと考え、
普段はあまり使わないことにしている老眼鏡をかけて
一軒目に入ったのが午前十時 - 私は変に昂揚していた。

思う存分買えるように、積み込む車まで用意しての出陣。
それはそれは「昂揚していた」ことだろう。

ところが、オチから先に言うと、それから三時間あまり経った昼すぎ、
私はたった二冊の本を持って表通りの喫茶店で溜息ついていた。
買いたいと思った本が二冊しかなかったのである。

一冊は二十年ほど前に金園社というところから出た
『大木惇天(あつお)詩全集』の第二巻で、
・・・
もう一冊は、店頭のワゴンにあった『日本のいろ、今昔』という、
縹(はなだ)色とか、半(はした)色とか、滅紫(けしむらさき)とか、
日本独特のいい色について書かれた本で、
・・・

しかし、いずれにしても古書として高価なものでもないし、
珍しいというほどのものでもない。

 欲しい本がないのである。
学生のころから古書店の黒ずんだ棚を見上げて
くやしい思いをしていた本が何もないのである。

変な気持ちだった。
小走りに一度車に戻って出直すどころか、一冊ずつポケットに入れたら
それでおしまいなのである。

昂揚して臨んだのに、3時間でたった2冊。
時間や冊数の問題ではなく、気持ちの問題。

「欲しい本がないのである」
この言葉は、欲しい本がない、という事実を語っているのではない。
表現されているのは、歳をとることのさみしさだ。

・・・
置き場所とか、引っ越しの際の手間を考えてのことではない。
どうしたことか、私の気持ちが欲しがらないのである。
あんなに厖大な本の中を三時間も歩いてたったの二冊
- 私は淋しくなった。

・・・
それにしてもどうしてこんなに欲しい本がないのだろう。

何かとても大きなものを取り落としたような失望と、三時間の、
その日の朝の意気込みからすれば徒労に近い歩行とで、
私はすっかり疲れてしまっていた。

・・・
 その日のことを考えると、いまも不思議である。
読みたい本は限りなくあるとずっと思っていた。
古書街を歩けば、目が廻るはずだった。

長い間、薄闇の中の宝石だと思っていた本たちは、
どうして輝きをなくしてしまったのだろう。

あのころとおなじように、いまも私の心は満たされていないはずなのに-。
たぶん-そこで私は思うのだが、たぶん変わったのは私の方なのだ。

秋のある日、お金をたくさん持って古書街をそぞろ歩くことを想うのは、
いまも素敵なロマンであることに変わりはないのだが、
いざ本たちを前にすると、気力が失せてしまうのだ。

あるいは、これから先に残された時間への不安が、
無意識のうちに欲しいという気持ちを押さえてしまうのかもしれない。
どっちにしても、輝きをなくしてしまったのは、
本たちではなく、私の方なのだ。

 

久世さんの文章を読んでいたら、ふとある曲の歌詞の一部が聞こえてきた。

中島みゆきさんの曲「ローリング」から。(以下薄茶部、歌詞の引用)

Rollin' Age 淋しさを
Rollin' Age 他人(ひと)に言うな
軽く軽く傷ついてゆけ

Rollin' Age 笑いながら
Rollin' Age 荒野にいる
僕は僕は荒野にいる

 

若いときには想像すらしたことのなかったような淋しさが、
ふっと降りてくることがある。

歌詞のほうは「言うな」「傷ついてゆけ」と命令調なのに、
なぜかやさしい。

「欲しい本がないのである」

そういう時もある。
ひとに言わず、軽く軽く傷ついてゆこう。

 

老いを歌った曲ではないが、もしご興味があれば全曲をどうぞ。

個人的には「中島みゆき」というアルバムに入っている歌の方が好きだが、
Youtubeに見つからなかったので、その五年後に発売された
「時代─Time goes around─」というアルバムのバージョンで。

この曲は曲で、まさにみゆきさんにしか歌えない淋しさが歌い込まれている。

 

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コメント

久世光彦の文章には考えさせられた。と、言うより、同様の思いをしている。
まず、老眼で本が読めなくなった。一週間に何冊も読んでいたときがあり、本の感想を語り合うサークルまで作っていたというのに、である。
最近は、好きなドラマを何話も観ることができなくなった。放映時間にテレビの前にいつも居ることが出来るわけではないので、録画する。昔は何話でも次々と観ていったものだが、今、それが出来ない。いきおい、録画して観るドラマの数が減る。
音楽もしかり。
これが老化というものかと愕然とした覚えがある。
「気力が失せてしまう」「これから先に残された時間への不安」言い得て妙である。

私は今、父の介護をしているのだが、父も若い頃興味を持って研究していた「長唄」に今の父はまったく興味を示さない。
やはりそうか。老化というものに対する怖れは、ちょうど今、私を襲っている。

【追記】
この欄に書くべきではないことは承知の上だが、誰かに話したくてしょうがないので、ブログ内容にあまり関係のないことを短く書く。
ドラマ『第二楽章』の第7話を今観た。観たあとちょっと立ち上がれなかった。この第7話は、全編の中でも出色の出来ではなかろうか。脚本も良いが、演出、もしくは演技が本当に良い。特に、板谷由夏のそれは絶品だ。こんなに巧い女優さんだったろうか。

こういう感動も老化と共に減ってくるのだろうか。

Ossan-takaさん、
コメントをありがとうございます。
どんな年齢になったとしても、その歳を経験するのはだれにとっても初めてなわけで、
まぁ、「初めまして」の歳を楽しむしかないかな、と思っています。
「怖れ」ずにいきましょう。

若かったときはおそらく読み飛ばしたであろう久世さんの文章に
思わず立ち止まって、いろいろ考えられるのもある程度の年齢ならでは、ですから。

Re:【追記】
板谷さん、ほんとうにすばらしい。
もう第一話からひかっていました。
私にとっては、映画「運命じゃない人」でのイメージが強いのですが。
ドラマ、次回もたのしみです。

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