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2013年4月

2013年4月28日 (日)

問題は教科書ではない。

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問題は教科書ではない。

- サンパウロでの歴史の授業 -

 

言うまでもないことだが、国境の島々や靖国参拝やTPPの件だけが外交問題ではない。
外交問題こそ、マスコミの取材力の発揮のしどころだと期待しているのだが、
なかなか期待に添うような報道にはお目にかかれない。

 

戦争は、武器を使ってやる外交であり、
外交は、武器を使わないでやる戦争である。

   塩野七生 「ローマ人の物語<20> 悪名高き皇帝たち [四]」 (新潮文庫)

は塩野さんの名言のひとつだし、
最近の本では、落合さんがたった2行で今の日本の状況を言い切っている。

結局、日本では左派が「ケンカはよくない」と繰り返し、
右派は「必要なケンカはアメリカがやってくれる」と他人任せにする。

   落合信彦 「ケンカ国家論」 (小学館)

 

外交問題は歴史を抜きに語れない。
一方、その歴史は、教育によって伝えられる部分が大きい。

歴史教育に関しては、なぜか教科書検定ばかりが話題になるが、
教科書がすべてというわけではないのだから、
もっと教え方について広く議論されてもいいのに、
と常々思っている。

教科書と歴史教育、と聞くと、ずいぶん古い文章だが、
ひとつ思い出すものがある。

猪口邦子さんが「パール・ハーバーの授業」という題で
文藝春秋に書いていたもの。今日はそれを紹介したい。

  (以下水色部、「文藝春秋」1985年八月号からの引用)

 

ブラジルのサンパウロにあるアメリカン・スク-ルに通っていた猪口さんは、
小学校最後の学年を迎えていた。

その年の社会科の科目は世界史だったが、そのことで幼い私の心は憂鬱であった。
憂鬱という気分の状態を本当に知るようになったのは、
おそらくこの頃ではなかったかと思う。

授業で古代ギリシャやローマのことをやっているころから、
猪口さんは、教科書の最後のほうにある
「パール・ハーバー」という見出しのついたページが気になり、
何度も読み返しては、ほとんど暗記するまでになっていた。

その教科書には日本についてのこんな記述もあった。

 そもそも、日本について、野蛮な人力車や戦闘的なサムライの国といった説明は
奇妙に思えたし、床に寝て、部屋を紙で仕切って暮らす、
といった書き方もショックであった。
とはいえ、この程度のことには、そのころの私はすでに慣れっこになっていた。

 しかし、パール・ハーバーの授業は別である。
それは、私にとってはじめてのパール・ハーバーの授業であり、
しかも私は、クラスでただひとりの日本の子として、
その授業に臨まなければならなかった。

そして、あの戦争について、次のように書いてあった。

教科書は、日本がいかに悪魔的な世界征服の野心と狂気で、
平和なアメリカを驚愕させたかを、いじわるいタッチで記述している。

野蛮で遅れた国民が、
自由と正義を体現した偉大なアメリカに対して滑稽な挑戦をしかけたこと、
そしてその野望は原爆によってついにくじかれたことなどが、
物語のように綴られている。

それは、まさに善と悪の対決であり、
世界の救世主対悪魔の落とし子の対峙する構図であった。

クラスでただひとりの日本の子として、この授業を受けなければならないその日、

なんとか仮病で母をだまして、その日、学校を休むという作戦

にでる。

 ぜんそくの発作と腹痛を、前の晩から自分でも驚くほどの大胆さで演じてのけた。
両親に教科書を見せ、親の世代に対する怒りをぶつけて、
堂々と学校を休むということを、なぜか私はしようとは思わなかった。
思えば、私は幼いなりに、異郷で精一杯、親をかばっていたのかもしれない。

 そのせいか、仮病を演じたことの罪悪感はほとんど感じないでいた。
ただひとつ最後まで気になって、なかなか寝付くことができなかったのは、
世界史の先生のことだった。
その先生は見えない魔法の杖を持っていて、授業がはじまると、
いつの間にか教室全体に昔の世界が広がっていった。

私はその先生が大好きだった。
パール・ハーバーの授業を休んだら、
先生はどう思うだろう……その答えはついに見つからなかった。

朝になっても演技を続けるが、最終的には学校に向かう決心をする。

 世界史の教室に入る。
足早に自分の席に向かう私に、「ハーイ、クニコ!」と先生は声をかけてくれた。
その声の明るさに、かえって私の心は緊張した。

いよいよ授業が始まる。

 授業がどうはじまったのか、覚えていない。
私はまるで石のように微動だにせず、教科書のそのページを開いたまま、
下を向いていた。
緊張のあまり、周囲から音が消えてしまったかのようだった。

 先生が黒板になにかを書いている……
日本の石油の輸入の割合だ……
おやっ……教科書にそんなこと書いてあったっけ……。
先生の声が耳にもどってくる。先生はどんどんしゃべっていく。

日本は資源が乏しいこと、
発展するために外国から資源を輸入しなければならないこと、
 
どんなに資源の乏しい国でも、貿易によって発展する権利があること、
しかし、欧米諸国は、アジアの国が発展しすぎることは許せないと思っていたこと、
そこで、日本の資源輸入を困難にしていったこと……
 
しかもなんとアメリカは、実は、
欧州戦に参戦する契機をつかもうとしていたこと……

違う! 
教科書と全く違うことを先生は授業でしゃべっている!

 先生はたったひとりの生徒のために、その授業をやってくれたのだった。
クラスのだれもが、授業の内容が教科書と全く違うことに気が付いていた。
しかし、いつもは活発な生徒達のひとりとして、そのことを問う子はいなかった。

授業はこう閉じられる。

 戦争には、沢山の原因がある、と先生は言った。

戦争だけでなく、国と国との間の事件には必ず複雑な背景がある -
それを単一原因論に短絡させてしまうのは、歴史に対する暴力だ - 
と先生は授業を閉じた。

 部屋を出るとき、先生に心からなにかを言いたかった。
けれど、ひとことでもしゃべったら、涙が一気にあふれそうだった。
かつてないほど、私はパール・ハーバーを恥じていた。

それでも、日本非難の矢面に立たないですんだことに、
私のなかの子供の部分は本当に救われたのだった。

 

猪口さんは、国際関係の複雑な絡み合いを解明していく仕事を夢見るようになる。

問題は教科書ではないのだ。

 

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2013年4月21日 (日)

米国ですべてを盗まれた。

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米国ですべてを盗まれた。

- 忘れられない夕食 -

 

米国で盗難に遭ったことがある。
パスポートから現金、衣類、帰りの航空券まで、まさにすべてを盗まれた痛い経験。
皆様もどうぞお気をつけあれ。

 

メーカのエンジニアとして仕事をしていた私は、ある製品開発のため、
米国に出張することになった。後輩のエンジニアも一緒のふたりでの海外出張。

米国の開発部隊と合流して、一緒に作業を進める予定だったので、
日本からの手荷物には、2台のノートPCのほか、小型サーバも含まれており、
ふたりの手荷物は合わせて5つになっていた。

米国、ロサンゼルス空港(LAX)に昼前に到着。

まずはレンタカーを借りに行った。借りたのは4ドアセダン。
トランクは大きかったが5つの荷物を入れるといっぱいになった。

目的地まではLAXから車で一時間ほど。
寄り道をせず、目的地まで直行して、
ホテルにチェックインしてしまえばよかったのだが、
ちょうど昼時だったこともあり、
空港から10分ほど走ったところにある「うどん屋」に、
「お昼を食べよう」と寄ってしまった。
日本人が多く住む地域のそばにある、以前にも何度か寄ったことのある店だった。

 

昼をすませて車に戻り、運転席側のドアを開けた。
その瞬間、妙な違和感があった。
ドアを開けるとき、すぅーと、風が流れるような気がしたのだ。
戻ってきた時点で確かにロックはされていたが、
なぜか密閉されていた空気感がない。

「あれ?」
と思ってドアを見た。特に異常はない。
「気のせいか」
と思ったその直後、視界の片隅に、キラキラ光るものが飛び込んできた。

「なんだ?」
 
よく見ると、それは後部座席に散らばる小さく砕けたガラスの破片だった。

「まさか!?」

改めて後ろのドアに目を遣ると、窓ガラスの後ろのすみ、
ハメ殺しになっている小さな三角窓のガラスが割れて
穴があいている。

車の室内にはなにも置いていなかったので、
目に見える変化は三角窓のガラスの破片だけだったが、
最悪の事態になっていることはすぐに理解できた。

 

あわててトランクを開けてみた。

「やられた!」

完全にカラ!!
真昼間、しかもほぼ満車というほど混んでいるモールの中、
5つの荷物は跡形もなく消えていた。

 

手元にあるのはお昼を食べた時に使った財布と腕時計のみ。
着替えはもちろん、パスポートも、帰りの航空券も、ノートPCも、
買い換えたばかりのデジカメも、とにかく全部。
連れももちろん同様の被害。

普通なら、常に持ち歩く貴重品の入った手荷物も
よりによって今回はスーツケースと一緒にトランクに入れてしまっていた。

昼食に降りる際、貴重品のことはもちろん気になったのだが、
手荷物を取るためにトランクを開けると、
荷物満載が見えてしまうことになるので、かえって良くないと思い、
「開けない」ことのほうを選んだのだ。
それが完全に裏目に出てしまった。

もちろん車の室内、見えるところにはなにも置いていなかったのだが。

 

まぁ、考えてもしかたがない。
まずは、警察に電話だ。

「米国に到着早々、すべての荷物を盗まれた」
「けが人はいるか?」
「いない」
「じゃあ、行かない」
「えっ?!」
「保険の請求のために、盗難届を出さなければならない」
「だったら、住所を言うからオフィスまで来い」

しかたがないので、住所を聞いてこちらから出向くことにした。

 

仕事での訪問先にも予定通りに着けなくなってしまったことを連絡せねば。
飛行機は定刻に着いているので、大幅に遅れると心配させてしまう。
電話番号は...

あちゃ、盗まれた荷物の中だ。

「もしかしたら、ここに入れていたかも...」と
覗き始めたのは腕時計。
デジタル時計で電話番号をメモできる、というタイプだったのだ。
現地時間と日本時間が同時に分かるという点でも、
海外出張時には重宝していた。

「あった!」
外から電話することがあるかも、とたまたま入力していたのだが、
まさか、こんなシチュエーションで役立つことになるとは。

電話して事情を話すとずいぶん心配してくれたが、
まだ車で一時間近くもかかる離れたところにいるので、
実質的にHelpしてもらうわけにもいかない。
 
「ふたりともケガはしていないので、大丈夫。遅れていきます」
とだけ伝えた。

 

まさに何もない状況だったので、
「電話を使ってもいいですよ」
「警察へ行くなら、地図、コピーしましょうか」
と被害に遭ったことを知って助けてくださった「うどん屋」の方の御厚意が
ほんとうにありがたい。

 

あまりの事態に、最初は全く実感のなかった盗難という現実が
あちこちに電話しているうちに、だんだん「ほんもの」になって胸に迫ってきた。

まいった。
事務的な手続きに追われることで、
落ち込んだ気分を忘れよう、吹き飛ばそうとはするものの、
言いようのないくらぁーい気分が急に強く押し寄せてくるような瞬間がある。

 

とりあえず警察に行って盗難届を出そう。
「最寄りの」とは言え、まだフリーウェイを走らねばならなかった。
三角窓の穴は、ちょうど腕が入るほどの大きさだったが、
高速で走るとバリバリと風の音がうるさい。

映画でよく見るLAPD(ロサンゼルス警察)のお世話になるなんて。

 

到着し、窓口に並ぶ。
順番が来たので、事情を説明。
窓ガラスが割られて、と話しているのに、車を見て確認する気配は全くない。
幼稚園児のようなヘタな車の絵を書いて「どこの窓ガラスだ?」と聞くだけ。

続いて、ざっくりとした盗難品リストを作った。
「高いものは何がある?」
3台のコンピュータはもちろん高価だが、
「それ以外に」と聞かれ、
買ったばかりのデジカメを答えたら、そこから先、もう詰まってしまった。

考えてみると高価なものをほんとに持っていない。
担当の方も
「jewelry(宝石類)はないのか」
と聞いてくる。

 

とりあえず書類を作ってもらったので、
次はレンタカーを交換すべく、LAX(ロサンゼルス空港)にまで戻ることにした。

レンタカーオフィスに行って事情を説明。
しかし、
「あっ、そう」
という感じで、「事件」としては全く伝わっていない。

「で、車はどこに停めた?」
「A番のところ」

 
ここでも警察同様、「窓ガラスが…」と言っているのに、
現物を確認する気は一切ない。

警察での盗難届の写しもあったせいか、
拍子抜けするくらい簡単に、代わりの車を用意してくれた。

別に「同情してほしい」とまでは言わないが、
この「なんでもない感」はいったいナンなんだ。
警察といい、レンタカーの担当者といい、
「ケガ人のいない」この程度のことは「事件」のうちに入らない、
ということなのだろうか。

 

「R番に停まっている車を代わりに使って。
 前の車から荷物を移したら、
 鍵はそのまま挿しておいてくれればいいから」

担当の方は、R番の車のキーと書類を手渡しながら最後、
 
「A番の車の中に忘れ物をしないようにね」
 
と親切に言葉を添えてくれた。
忘れ物をしようにも移す荷物が一切ない。

車も交換してようやく普通に走れる状態に戻ったので、
訪問先を目指すことができるようになった。

 

このあと、パスポートの申請、航空券の再発行手続き、
会社財産、私物の保険請求、等々、
面倒な事務手続きのオンパレードだったが、この部分は全部省略。
 
一言で言えば「ふぅ」。

でも、会社の仲間や友人、家族には精神的にずいぶん助けてもらった。
「声を聞くだけで元気になる」という人がいることのありがたさを
こんなに痛感したことはなかったかもしれない。

とまぁ、ここまでが遭遇した盗難事件の概要。

 

ここから先は、この事件に深く関連するエピソードをふたつ。


(1)なぜ私の車だけが狙われたのか。

 
昼食に寄ったモールの駐車場はほぼ満車だった。
その中から、トランクに荷物満載の車をどうやって見抜いたのか。
上に書いた通り、荷物満載が見られるのが嫌で、モールでは一度も開けていないのだ。

実は、ちょっと思い当たることがある。
最初にレンタカーを借りて、駐車場のゲートを出るとき、
ゲートで出庫を確認している係の人が、
 
「ノートPCを持っているか」
 
と聞いてきたのだ。

これまで、相当な回数米国でレンタカーを借りているが、
ゲートでそんな質問をされたことは一度もない。
 
なんでそんなことを聞くのだろう、と変な顔をしていたら、

「レンタカーのオフィスにPCの忘れ物があったので」

と言う。助手席に座っていた連れに

「ちゃんとトランクに入れたよね(日本語)」

と確認し、係の人には、親指で後ろのトランクを指さしながら

「持っているから大丈夫(英語)」

と答えた。
どうもこれがいけなかった気がする。

 

このあとから、誰かにつけられたのではないか、と思っている。
もちろん証拠は一切ない。
ゲートの担当者がどこかに連絡したという証拠は。
でも、少なくとも一台以上のPCがトランクにあることを彼は知っている。
しかも開ければ、持ち出しやすいように全荷物がパッキングまでしてあるのだ。
考えてみると「空港からのレンタカー」は狙うなら
かなり「おいしい」ターゲットなのかもしれない。

 

最初に駐車して車から離れたのが空港から10分ほどの場所、と近かったことも、
相手の思う壺だったのかもしれない。
(さすがに一時間も走れば追跡も諦める気がするけれど)

 

繰り返しになるが、証拠はない。
でも、そうであれば、ゲートで聞かれたヘンな質問も、
満車の駐車場から荷物満載の一台を確実に狙えたことも説明がつく。

とにかく、読者の皆様、お気をつけあれ。
荷物があるなら、まずはホテルに直行して,
チェックインしてしまうことをお薦めする。

 

(2)忘れられない夕食
 

米国滞在中、以前一緒に仕事をしていたベトナム人から連絡があった。

 
「夕食を一緒にしましょう。ホテルまで迎えに行きますから」
 

彼は、その時点では、もう別な会社で働いていたので、
まさにわざわざ来てくれたことになる。

結婚が決まっていた彼は、婚約者と一緒に夕刻、
約束通りホテルまで迎えに来てくれた。
他の仕事仲間も加わって、ご両人お薦めのベトナム料理レストランへ。

 

料理ももちろんおいしかったが、
 
「事件に遭って、落ち込んでいるだろうから励まそう」
 
というお二人の気持ちがじわじわとあたたかく伝わってきて、
それはもう、うれしくて、うれしくて。

一緒に仕事をしていたころのなつかしい昔話が持っている力とは、
いったい何なのだろう。
笑いながら思い出を語りあっているうちに、
へこんでいた気持ちがどんどん元気になっていく。

 

料理と会話だけでも十分励まされたのに、最後、彼は
 
「今日は、盗難に遭ったふたりに特別なプレゼントがある」と言う。

「なに? なに?」

「特注で作ったTシャツなんだ」

「Tシャツ? 特注??」

円卓を囲む皆が興味津々で彼に注目する。
彼は手にした袋から白いTシャツを取り出し大きく広げた。

胸には大きな文字で「I SURVIVED」。
もちろん意味は、「私は生き残った」。

 

事件後、話をするたびに現地の人から何度も言われた。
「犯人達(複数犯に間違いないだろう)と顔を合わせなくてよかったよ」
「声をあげて追ったりすれば、下手すりゃ命まで危なかったンだから」
「ロサンゼルス、荷物目当てで殺されることだってあるからね」
 

あんな荷物のために怖い思いをしたり、
ましてや命を失なったりはしたくない。
 
そういう意味では確かに「生き残った」のかもしれない。

 

受け取った私は立ち上がって、胸に当てて誇らしげに回りに見せた。
笑いと拍手がドッと広がる。

歓声まじりの拍手の中、円卓に座る皆の笑顔を見ていたら思わず胸が熱くなった。
今回の出張では、ほんとにひどい目に遭ったのに、
今のこの幸福感はどう言葉にすればいいのだろう。

ほんとうに忘れられない夕食となった。

 

もらったTシャツは、もちろん翌日会社に着ていった。
出張者の災難は部署内ですでによく知られていたので、
職場でも、それはそれはオオウケだった。

彼への感謝の気持ちとともに、今でも大事にとってある宝物のひとつだ。

2003年5月のこと。もう十年も前の話ではあるけれど。

 

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2013年4月17日 (水)

死をおだやかに

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死をおだやかに

- 「江戸前の鰻重」 -

 

14日、俳優の三國連太郎さんが亡くなった。

訃報はいつ聞いても悲しいが、90歳と聞くと、
「天寿を全うしたことだろう」と
心静かに送ることができるような気がする。

「何歳だろうとそれがその人にとっての天寿だ」
は理窟としては正しいのかもしれないが、
あまりに若いと、気持ちのほうがそれを受け入れられない。

その点、90歳は聞いた人にやさしい。

「誰でも死ぬ」は100%確実なことだけれど、だからこそ、
送る方も送られる方もおだやかに迎えられれば、と願わずにはいられない。

 

死をおだやかに、と言うと思い出す文章がある。

作家の神崎照子さんが書いていた「江戸前の鰻重」
(2005年「岡山県エッセイスト・クラブ作品集」第三号)
こんな書出しだ。(以下水色部 引用)

 死ぬ前に江戸前の鰻重(うなじゅう)を食べたい。
 
それが私の密かな願望だ。
密かなといっても実はすでに家族に宣言してある。が、笑って聞き流された。

それはそうだ。直前に鰻重が食べられるような、
そんな都合のいい死に方などめったにできるもんじゃない。

病気で衰弱していって、ついに流動食も喉を通らなくなれば鰻重の出番はないし、
健康でも事故で即死したらその場に鰻重の出前は間に合わない。
しかし私はかなり本気だ。
執念にしてもいいと思っている。密かに。

本文では、鰻重への思い出が綴られているが、そこは全部省略。
 
とにかく「この願望」だけを家族や担当医に、しつこいくらいに徹底する。

もう一度、家族に宣言しよう。
特に子供たちにきっぱりインプットしておこう。

私が死にそうになったら鰻重だぞ、と。
老いてボケて入院したら担当医師にもそのことを伝えてほしいと念を押す。

そして、いよいよその時を迎える。

あるうららかな日、沈痛な面持ちで医師が子供たちの前に立つ。

「残念ですが鰻重です」

「……… やっぱり鰻重ですか」

子供たちは来るべきものが来たという思いで唇を噛む。

なんなんだ、この雰囲気は。 思わず笑みがこぼれてしまいそうだ。

 

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2013年4月14日 (日)

和菓子のおいしさを表わす言葉

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和菓子のおいしさを表わす言葉

- 気分を前後でちゃんと楽しむ  -

 

前回の、ワインの話の中で、
福田さんは日本酒のことを次のように書いていた。

  日本人が慣れ親しんできた日本酒とは、温暖多湿な気候で、
  水が大量に利用可能な条件ではじめて作られうる飲み物、
  まさしく豊富な水が生んだ「水の精華」のなのだ。

米や日本酒に限らず日本では、(ワインと違って)
大量の、かつ「おいしい水」がその品質に深く結びついているものが多い。

和菓子もそういったもののひとつだ。今日は、
和菓子家、金塚晴子さんの「水の国のお菓子」 (2004年「文藝春秋」九月臨時増刊号)
を読んでみたい。(以下水色部 引用)

まずは「水」について。

和菓子は、意外とシンプルな配合で出来ています。
主に粉類と水と砂糖と餡。

製作過程においても水を大量に使っている。

和菓子は湿度の国、水の国のお菓子だ、ということです。
なぜなら和菓子を作っていると、たくさんの水を使うことに気がつくからです。
例えば餡を作るには豆をたっぷりの水で、水をかえながら煮上げ、
そして冷たい大量の水でさらして美しい小豆色の餡に仕上げます。

その水の量に、初めてこの作業を見る方達は驚かれるのです。
葛やわらび粉、寒ざらし粉(白玉粉)も、その精製過程で冷たい大量の水を必要とします。
まず水がよく、そしてその水がふんだんにないとよい材料が出来ないのです。

和菓子のレシピ(配合)を見ると、その基本は米や小麦の粉と水と砂糖、そして餡。
西洋のお菓子が粉をパターと卵でつないだものが多いのに対して、
和菓子は粉を水でつないでいるのです。

和菓子のおいしさを思い浮かべてみよう。どんな言葉が浮かぶだろうか。

和菓子のおいしさを表わすのに味のことよりも、しっとりしている、
もっちりしている、ぶるっとしている、こしがある、とろける、といった
食感もしくは触感と言える言葉が返って来ます。

中でも特に多いのがしっとりしていておいしいという言葉です。
そう、和菓子は湿度があってこそのお菓子なのです。

和菓子には「湿度が作るおいしさ」のほかに、
もうひとつ大事な要素がある。
季節に合わせて次々と変化する、色、形、そして名前だ。

この月、私のお教室で作っている和菓子は、ういろう製の"青葉の陰"、
ひすい色した葉の型で餡(あん)をくるりと巻いてあります。
ういろうというとようかんのように切って食べる棹物(さおもの)を思い浮かべる方が
ほとんどかも知れませんが、その半透明、すりガラスのような美しい質感は
上生菓子として茶席にもよく使われるのです。

春、夏、秋、冬。色を変え形を変え、様々な銘(なまえ)を持つ和菓子に変化します。

春、桜色のその菓子の名前は"初桜"、
初夏、青緑に染めて"青梅"、
九月、黄色に色づけ尾花の焼印を押して月見の宴にそなえます。
冬、紅色の菓子の銘は玉椿でしょうか、梅衣でしょうか。

ういろうという素材(種)からだけでも何十もの和菓子が思い浮かぶのです。

たしかに、東南アジアの国々にも、ういろうによく似たお菓子が何種類もありますし、
もともと中国から伝わったものです。

同じ米の文化圏、米の粉と砂糖と水から出来ているおなじようなお菓子があって当然ですが、
そのういろうを季節のうつろいに合わせて様々な色と形にし、
名前をつける国は日本だけではないでしょうか。

デザイン的には大きくデフォルメされていながらも、
繊細に描き出される自然の色、形。それに与えられるふさわしい銘(なまえ)。
しかも、ひとつひとつには、手作りならではの小さなばらつき、ゆれ、ゆがみがある。

人の手が作った上手の上のお菓子には、手仕事ならではの洗練とあたたかさがあると思うのです。

そのお菓子にはほんの少しのゆれやゆがみがあり
その味わいが日本ならでは、和菓子ならではの美しさになっているのではないかと思います。

  月も雲間のなきは嫌にて候 (村田珠光)

ただ、ただ、ひたすらまんまるのおまんじゅうなんて嫌にて候。
そう思うのはきっと私だけではないでしょう。

「水」との深い繋がりをベースに、色も形も名前もまさに変幻自在。 
やさしく季節に寄り添う和菓子たち。

 

以前、縁があって、真摯に仕事に取り組んできた和菓子職人を先生に
和菓子作りを体験させてもらったことがある。

 

葛は、まさに水によって作り出される質感で菓子全体が表現されている。

Pa260044s Pa260045s

 

練り切りでは、三角棒(菊芯無)と呼ばれるへらを使って、
同じ材料から様々な花を作り出すことができる。

Pa260063s Pa260070s

 

そう言えばそのとき、「服が汚れることがありますから...」との
事前アナウンスがあったにもかかわらず、
受講生のなかに和服で来ていた女性がいた。和服に襷掛(たすきがけ)と前掛け。

Pa260042s

「和菓子を作るのですから、家をでる時からその気分に、と思って」と
サラリとおっしゃっていて、ぜんぜん特別なことをしているって感じじゃぁない。
いやぁ、おしゃれだ。

気分を前後でちゃんと楽しむ、っていうのは、環境ではなく姿勢の問題だ。

 

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2013年4月10日 (水)

ワインの産地はなぜ川のそば

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ワインの産地はなぜ川のそば

- おいしいワインを作るのは川? -

 

知人の紹介で、イタリア料理を食べに行った。
料理も絶品であったが、お店のワイングラスがどれもほんとうにすばらしく、
食器がいいと味もさらに良くなる、をまさに体験した夜だった。

私自身は寡聞にして反応できなかったが、
一緒にいった友人は、最初のグラスがでてきた時から
「これ、ロブマイヤー(LOBMEYR)じゃないですか」と目を輝かせている。
ロブマイヤーの各種グラスでワインを通して飲めたことに、
「星付きレストランでもないよ」と最後まで興奮気味。

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どのグラスも、ガラスの薄さとつくり自体はほんとうに繊細で美しいものだったが、
お店の人の話によると、簡単に割れたりはしない、むしろ丈夫なものなのだとか。

「いいグラスで気持よく食事を楽しんでもらいたくて」と
一脚*万円もするグラスをさり気なく並べてくれるお店の姿勢がうれしい。

 

ワインで思い出した話があるので、今日はそれを紹介したい。

早稲田大学教授の福田育弘さんが書いた
「ワインという思想 - おいしいワインは川が作る?」 (学燈 2004年秋号)

ワインそのものについてではなく、「川」との関係について。(以下水色部は引用)

ヨーロッパのワイン産地の地図を見ると、多くの人はある明白な事実に気づく。
それは、ほとんどすべての有名なワイン産地が川沿いにあることだ。
川沿いの丘の斜面にきれいに剪定され、背丈の揃ったぶどうの木が、
下から上に何列も整然とならぶ風景。

これは、フランスの主要河川であるロワール川やローヌ川だけでなく、
ドイツのライン川やモーゼル川、ポルトガルのドウロ川沿いにも見られる、
ヨーロッパに共通の風景だ。

では、なぜ川なのか。

福田さんは学生に質問してみた。

「ぶどうの栽培にきれいな水が必要だから」という答えが多く返ってきた。

なかには、わざわざ
「乾燥しているヨーロッパでは川のそばでないと栽培に必要な水が得られないから」
という説明を付けた解答もあった。

「きれいな水」、おいしいものと結びつけて思わず使ってしまう単語だ。
しかしこの解答は、大きな誤解を含んでいる。

ぶどうはもともと湿気を嫌い、かなり長い日照時間を必要とする植物で、
問題は「水」よりも「水はけ」である。

日本酒に対するイメージが、誤解を生む原因のひとつになっているのかもしれない。

日本は米を主食とし、日本人にとって馴染みのアルコール飲料である日本酒も、
その米から作られる。稲を作る水田には大量の水が必要で、
田に水を引く用水の建設を柱とした灌漑作業が不可欠だ。

しかも、米という乾燥した穀物をアルコール飲料にするためには、麹につけて、
さらにそこに大量の水を、しかも上質の水を投入しなければならない。

日本人が慣れ親しんできた日本酒とは、温暖多湿な気候で、
水が大量に利用可能な条件ではじめて作られうる飲み物、
まさしく豊富な水が生んだ「水の精華」のなのだ。

ところが、ワインは、これとは正反対の方向で作られる。
なぜなら、ワインはぶどう果汁だけを絞って作られるからだ。
乾燥し、水が貴重な砂漠的な気候で「水代わり」に飲まれたもの、
それがワインなのだ。

同じような誤解はフランス人にもあるらしい。

たとえば、ワインの製造法を近代化した化学者であり、
さらに内務大臣まで務めたジャン・アントワーヌ・シャプタルは、
『ぶどう栽培の理論と実践に関する概論』のなかで
フランス各地で河川の流域に優良なぶどう畑が広がる事実を広く確認したあと、
これらの川が
「ぶどうにとって重要な滋養分となる」要素を大気にもたらしていると結論づけ、
「これらの水蒸気がゆっくりとぶどうの木を冷やし、猛暑の影響を遮断したり
緩和したりして、ぶどうの皮を柔らかくする」云々とまことしやかに述べたてている。

さすがにフランスの気候とぶどう栽培の条件を知っているシャプタルは、
水を直接的な条件とせず、水蒸気の緩和作用とみなしているものの、
川のもたらす自然条件が重要であると考える点では、
日本の学生たちと同じである。

では、なぜ川の周辺にぶどう畑が広がっているのだろうか。

答えは簡単、流通が容易だからだ。

古代から中世にかけて、物資を安全かつ大量に運ぶのに河川輸送にまさる手段はなかった。
陸上輸送は人や馬にたよって荷車を用いるため、費用がかさむ。
 
特に荷物が重い液体のワインとなればなおさらである。
しかも、大小の領主が覇権を争っていたためしばしば戦争があり、
道路状況もけっして万全ではなかった。

そんなとき河川を経由すれば重い荷物も大量に運べてコストがかからない。
これがヨーロッパの主要都市が河川に面している理由であるし、
またそうした都市を消費地としたワイン産地が河川に面して拓かれた理由でもある。

 

水そのものよりも、川がもつ社会的要因が各地の特色を生み出していくことになる。

 

【ブルゴーニュ地方】

たとえば、唯一高名なぶどう産地で航行可能な河川が流れていないブルゴーニュ地方は、
陸路による輸送に経費がかかるため、その経費を上乗せしても売れるような
高品質で高価なワインを作るというマーケティング戦略に出て、
いまの名声の基礎を確立したのだった。

 

【ボルドー地方】

また、ガロンヌ川とドルドーニュ川という二つの重要な河川のほぼ合流点に位置するボルドーは、
その立地を生かして、川の上流から輸送されてくるワインに
高い税金を課すなどの数々の制約を加えて、
自分たちのワイン市場を確保したのである。

中世の長い時期にわたってイギリス領だったボルドーは、フランス領である内陸に対して、
特権をもつことをイギリス王から許されていたのである。

 

【メドック地方】

もっとも下流のメドックがワイン産地になったのも、
ボルドーがフランス領になってボルドー特権が廃止され、
より輸送に適した下流のメドックの立地が評価されたからにほかならない。

メドックには、
「ワインがおいしくなるにはぶどう畑が川から見えなくてはならない」
という古い格言がある。
これを川の社会的な役割を表現した文章だと理解するには、
同じ文化に属していても、時代を相対化する想像力が必要であるように思われる。

 

代表的な産地には、単なるぶどうの種類や気候の違いだけではない、
川と深く結びついたこんな背景の違いがあるのだ。

 

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2013年4月 7日 (日)

ウソより思い込み

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ウソより思い込み

- バック・トゥ・ザ・フューチャー4? -

 

今年もいろいろなエイプリルフールネタが公開された。

* お湯をかけて3分でプリンが完成、日清食品の「カップヌードルプリン
* 「開けたら即!焼きたてピザの味わい、ダイレクトに!」とドミノ・ピザの「ピザ缶
* 月給120万円でふんどし絞め師後継者を募集した日本ふんどし協会
* 食べるだけで30言語がぺらぺらになるロゼッタストーンの「こんにゃく」
* 指一本で操作可能なカンタン日本語入力、Google日本語入力の「日本語入力パタパタバージョン

などなど、苦心のあとは感じられるものの、洒落たウソはむつかしいものだ。

* 4月1日発売の美術誌『月刊ギャラリー』に「東京都現代美術館が閉館」の記事

が出て、問合せが相次いだ美術館側が
公式ホームページで「全くの事実無根」とコメントを発表して抗議、
これに対して著者が
「エープリルフールのジョークが分からない方々が美術館や文化行政や報道に携わっていたり」
の文言を含む謝罪コメントを載せたものだから、さらに拗れて...
ということもあったようだが、もちろんこれもニヤッとできるようなウソではない。

そんな中、

* インターネット動画投稿サイト「YouTube」が、動画の受付を終了、
  2005年のサイト開設時からの動画を審査し、10年後に最優秀作を発表。

とした「YouTube's ready to select a winner」は
「YouTubeは全部、おもしろ動画を集めるコンテストだったのか」と
一種のブラックジョーク的要素もあってかなり気が利いている。

 

エイプリルフールネタと言えば、もう5年も前になるけれど
やっぱりBBCのこれ。

個人的にこれを超えるウソネタ作品にはなかなか出会えない。

 

そう言えば今年のネタの中に、

* ユニバーサル映画公式Facebook 「バック・トゥ・ザ・フューチャー4」の製作を発表

というのがあった。

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」、
特に「1」はエンターテイメント映画として傑作だと思うが、
この映画の題名を聞くと思い出す、忘れられないエピソードがある。

「1」の公開当時私は学生で、新宿の映画館に一人でこの映画を観に行った。
ひとつ席をあけて隣ふたりは、おしゃべりなおばさまふたり。
斜め前には、米国人と思われる若いお兄さんふたり。

米国人ふたりはポップコーンを食べつつ、
なにやら楽しそうに話をしながら、開演を待っていた。
早口の英語は何を言っているのか全くわからなかったが、
ときどきハデに笑うその陽気さは、開演前の静かな映画館では
ちょっと目立っていた。

横では、おばさまふたりのおしゃべりが小声で続いている。

ふと、マシンガンのような英語で会話している若者ふたりを前に、
おばさまのひとりが口にした言葉が耳に入ってきた。
日本語なら小声でもはっきり聞き取れる。

「前のふたり、字幕読めるのかしら」

なんというあたたかい思いやりだろう。
「無理やり作ったウソ」よりも「悪意のない思い込みの間違い」のほうがずっとおもしろい。

映画が始まり、日本人がだれも笑っていないところで笑っていた若者ふたりを見て、
おばさま、「思い込みの間違い」に気がついてくれただろうか。

 

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2013年4月 3日 (水)

藤原の桜

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藤原の桜

- 本当はどんな色ですか? -

 

「日本では花が咲いたかどうかが、ニュースのトップになることがある」
と外国人記者に揶揄されたことがあるらしいが、
外国人にどう思われようとも桜の開花には心踊るものがある。

今年の東京の桜は早かった。3月22日に満開になってから、
一日も青空を背景にすることなく散り始めてしまったことは、ほんとうに残念だったが、
思い返してみると期待値が高いせいか、花見の季節の天候は恨めしいことが多い。

いやいや、見頃はこれからだよ、という方々、
どうぞよいお天気に恵まれますように。

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敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 本居宣長

と詠われるように、ソメイヨシノだけが桜ではないが、
大きな曲線を描きながらゆっくり北上していく桜前線は、
まさに日本列島を春色に染め上げていく。

 

「なぜ桜の下で酒を飲むのか」については
西岡秀雄さんが書いている「サ神」伝説を中心にした話を知ると
いろいろ人に話したくなる。

桜とは「サ=サ神の:クラ=座る場所」。
「サ拝む」でしゃがむ、サとの境界線を境(サカイ)、サ下げるで捧げる、サが千で幸、
サケもサカナもサカエルもサクもみんな「サ神」に繋がっていき、
「サ」のつく言葉への興味は尽きない。

 

そしてもうひとつ、この時期に毎年必ず読み返してしまう文章がある。
人間国宝、染織家の志村ふくみさんが書いた「藤原の桜」
「語りかける花」(ちくま文庫)に入っている。

きょうはこれを紹介したい。(以下水色部は引用)

群馬県水上の藤原中学校の先生から志村さんが手紙をもらうところから
話は始まる。藤原中学は、冬は積雪数メートルにもなる山の中の中学校で
全校生徒36名という小さな学校だ。

中学で使っている二年生の国語の教科書に大岡信さんの「言葉と力」という
文章が載っており、そこに志村さんの

「さくらの花の咲く前に皮をはいで染めたら、上気したような美しい桜色に染まった。
 それは桜の花辯だけが桜色なのではなくて、花の咲く前の桜は
 幹も枝も全体で色を貯えているからだ」

という話が引用されている。
それを読んだ藤原中学の生徒がこの話に大変興味をもった。

藤原には山桜が沢山あるから自分達で是非染めてみたい、
染め方を教えて下さい、という手紙をよこしたのである。

 

中学生でなくても惹かれる文章だ。
花が咲くころ、その幹で染めるとほんとうに桜色になるのだろうか。
あの桜色は、花辯だけでなく、まさに全木に宿っているということなのだろうか。

志村さんは早速返事を書き、染め方と桜で染めた糸とを送った。
すると、二年生全員12名から手紙が来た。

「桜で色が染まるなんてふしぎでたまりません。
 みんなで山へ桜をきりに行き、
 男子は木を燃して灰をつくり、女子は皮をむいて染めてみました。

 藤原は湖や沢や谷や素晴らしい自然にとりかこまれていて、
 もうすぐ水芭蕉が咲き、わらびやぜんまいも出ます。
 是非一ど来て下さい。
 首を長くしてまっています」等々、

私はこんなうれしい手紙をもらったことがない。

 

その後、群馬県を訪問する機会を得た志村さんは、
仕事場の若い人達と一緒に三月、雪の中、藤原中学を訪問する。

村に一軒しかない温泉宿に前泊した志村さんらは、翌朝、
校長先生らと木を切りに行き、桜、みず楢、みずぶさ、もみじなど、
数種類の材料を集め、理科室を借りて炊き出し、
生徒達の授業が終るのを待った。

こんなに雪の深い山の中もすでに春は間近く、どの枝も芽吹きの態勢をとっている。
思えば何とよい時期に訪れたことか、あちこちで煮立ちはじめた材料から
春をさきがける新芽の匂いが理科教室にみちた。

こぶしは香油をとるといわれるだけに刺戟性のきつい匂いである。
槐(えんじゅ)からもさかんに匂いが発散される。
桜は果芯の香り、それらがいりまじって、樹々の胎内にさまよいこんだようである。

授業の終った生徒達が待ちかねたように次々理科教室に入ってくると、
一斉に匂いに驚いた様子。

恥じらいと、好奇心と嬉しさにあふれる瞳。
雪やけにひかる頬、顔中ほころばせて精一杯の挨拶、
私は久しくこんな子供達に出会ったことがない。

私は京都から持ってきた糸を生徒達にわたし、一緒に染めはじめた。
はじめおずおずと糸を染液に漬けていた生徒も、
パッと発色すると急にいきいきとした表情になる。

中学二年生といえば、植物の新芽がようやくふくらむこの頃の季節にたとえられようか、
これから人間として、さまざまの体験をする寸前の、
春浅い芽吹きの時期の子供達である。

 

爽やかな熱気が理科室にあふれる。

 

いよいよ桜を染めることになった。

山桜の皮はつやを帯びた木肌の裏に、赤と緑がにじみ出ていて、
炊き出してみると、透明な赤茶の液が出た。

その液に糸をつけ、灰汁で媒染すると、上気したような桜色が染まるはずである。が、
糸をつけた瞬間パッと発色したのは、濃い赤味を帯びた黄色だった。

目の前で桜色に染上ることを期待していた生徒達の間に、
失望に似た吐息がもれた。
私も信じられない思いだった。
生徒達に何と説明してよいか戸惑った。

その時、一人の女生徒が、
「本当の桜はどんな色ですか」
とたずねた。

私はとっさに答えた。
「これが本当の桜の色です。藤原の桜の色はこれです」
と、事実を言う以外なかった。

京都の小倉山の桜は、やわらかい桜色だった。
雪深い山中でじっと春を待つ藤原の桜は、濃い黄色だった。
風雪に耐えた枝は曲り、きけば花の色も濃いという。

 

新芽の匂いと、生徒達のあふれんばかりの期待で満たされた学校の理科室。
最高潮に盛り上がった瞬間に訪れる、吐息。
そこで交わされる生徒との小さな会話。

「本当の桜はどんな色ですか」
「これが本当の桜の色です。藤原の桜の色はこれです」

黄色の発色には、志村さん自身戸惑ったようだが、
この会話はほんとにいい。

 

「本当の、正しいことはどこかにあって、
 本当ではない、正しくないものが目の前に現れることもあるのだ」
そんな感覚が知らず知らずのうちにどこかで染み付いてしまっているのかもしれない。
思わず「本当の桜は」と聞いてしまった生徒の気持ちがよくわかる。

でも、今、目の前で起こっていること以上に「本当のこと」があるわけはない。
「本当はね、」などとつまらない説明をせず、

「これが本当の桜の色です。藤原の桜の色はこれです」

と言い切ったことは美しい。

 

京都にかえってすぐ、私はもう一ど嵯峨の桜を染めてみた。
かたい蕾をもった古木だったが、先年のような桜色は染まらなかった。

やり直しても精気ある色は、再び生れなかった。
何が原因なのかわからない。

千の桜には千の色がある。
自然のごく一部を垣間みただけの自分が、わかった風に話したり、
書いたりしたことを恥しく思った。

 

その後、先生と生徒から手紙が来た。

あの日私に質問した生徒は、
藤原の桜が黄色だったということは自然の証明で、
木が一生懸命自分を主張していたのだと思う、
何でもやってみれば本当のことがわかる、
勉強すれば本当のことにぶつかると思うとうれしい、と書いてよこした。

 

修学旅行で生徒達が京都に来ると、わざわざ会いに行った。
そこで皆から、みずね桜の枝をみやげにもらう。

志村さんは、みずね桜の色に出会う。

一昨夜、修学旅行に京都を訪れた生徒達に会いにいった。
その時一人一人が私にみずね桜の枝をおみやげに手渡してくれた。

私は早速、十本の小枝の皮を丁寧にはぎ、染めてみた。
それは桜の精そのものだった。
淡いけれど内に深く色をたたえ、底の方からかがやき出すようである。

雪の藤原を訪れて二ヵ月、新緑の季節に入ろうとしている頃、
私はようやく本当の桜色に出会った気がしている。

 

 

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