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踊りに口パクはない
- その場にいなければ永久に見られない、それでいいのだ。-
某テレビ局のプロデューサが、
担当する音楽番組での「口パク」を禁止する、と明言したらしい。
理由はいろいろあるようだが、録音に合わせて「歌うフリ」をするだけでなく、
伴奏の方も「演奏しているフリ」をする、これもいまやめずらしいことではないようだ。
歌の上手い下手とは別に、歌手が観客を前に、歌を歌わなかったら何をするンだよ、とも思うが、
生の歌で何かを表現すること自体を放棄しているのだから、
本人も「見たい」人だけを相手にしているということなのだろう。
だから、というわけでもないだろうが、歌や演奏に録音を使うような人でも、
踊りについては毎回ちゃんと踊っている。
歌と踊りのライブ感がズレてしまって、チグハグな感じがすることもあるが、
いずれにせよ、踊りのほうはサボれない。
今日は、踊りに関して、特に「舞踏譜」に関するメモをちょっと整理しておきたい。
音楽における楽譜のように、踊りを表現する「舞踏譜」というものはあるのだろうか?
そういう疑問を持ったのはずいぶん前のことで、「ある」と知ったのも同じ頃のことだが、
以降、実物にお目にかかったことも、使っているのを見たり聞いたりしたことも一度もない。
踊りを作る、という段階ではどうだろう。
振付師が、作曲者が楽譜を書くように、舞踏譜を書く、という作業をすることがあるのだろうか?
振付師がイメージした踊りをダンサーに伝える際、
実際に踊ってみせる「振り写し」ではなく、舞踏譜を使う、ということがあるのだろうか?
そもそも「舞踏譜が読める」というダンサーの言葉を聞いたことがない。
記録という意味ではどうだろう。
録音からの採譜のように、踊りを記録する手段として舞踏譜は使えるものなのだろうか?
録画よりも良い点があるのだろうか?
情報の伝達手段という意味ではどうだろう。
完成した振り付けを、他の集団や、後世の人が踊れるように、
伝達する手段として舞踏譜は使われているのだろうか?
舞踏譜については、謎だらけだ。
というわけで、まずは
中村美奈子さんが書いて、Webで公開されている
「舞踊記譜法 -用途、歴史、分類-、そして応用」を参照させていただき、
舞踏譜の概要を掴んでおきたい。(以下水色部分、要点のみの抜粋)
舞踏譜は、「ダンス・ノーテーション」などの言葉で検索すると、さまざまな手法が出てくるが、
その数は80種にもなると言われている。
もちろん代表的なものがいくつかあるが、決定的な一つの方法が、
五線譜のように広く踊りの世界に広まっている、というわけではないようだ。
それはなぜか、も考えながら見ていきたい。
最初に、舞踏譜がもつべき情報量の多さを、想像してみよう。
楽譜は、「時間の経過に従って起こる音楽を視覚的な記号に変換したもの」ということ
であるが、舞踊の場合は、これに「空間」という要素も加わることになる。
更に、身体のある一部位の動作の譜面を、ある楽器のパート譜と考えるならば、
身体全体の運動は、オーケストラの総譜(スコア)のような膨大な情報量になることが
理解していただけるだろうか。
これが、音楽の五線譜と違い、舞踊譜があまり普及しない理由のひとつでもある。
つまり、ほんの少しの動作の舞踊譜を読むにも、
オーケストラのスコアを読むほどの労力が必要になるからである。
これならむしろ、身体から身体へ、実践で習ったほうが、
身体のよく動く舞踊家にとっては、楽なのである。
オーケストラのスコアが難なく読める人は、
音楽家の中でも訓練を受けた限られた一部の人のみである。
舞踊譜も複雑な体系を持つ記譜法(LabanotationやBenesh Notation)については、
その記譜と解読を専門的に行うノーテーターが存在する。
体の一部位がひとつのパート、よって、部位が合体した、たった一人の動きでさえ、
オーケストラ・スコアのような膨大な情報量になる。
これは十分わかる気がする。
一人でもそうなのだから、複数人による群舞ともなると、
その絡み合いも合わせて、その複雑さはいったいどれほどになることだろう。
それでも舞踏譜は存在している。
中村さんは、「舞踏譜を利用する理由」を次の5つに整理している。
1.二次元映像(ビデオ)には、技術的な限界がある。
三次元の舞踏を二次元にしているので、死角がある。
マルチチャンネル撮影や三次元化の技術もあるが開発中の段階。
2.ビデオ映像は、ある特定の(1回きりの)上演例であって作品と同一ではない。
舞踊譜には、「コンセプト」が書かれている。
舞踊は、一回一回生成されては消え去る時空間で起こる無形の現象。
3.紙に書かれたものについては舞踏の著作権が認められるようになったので、
記譜して保存するようになった。
4.舞踊の分析と研究の手法として有効である。
採譜された舞踊譜を使って、舞踊の全体構造を見たり、
逆にフレーズの細部について検証したり、
二つの舞踊を比較分析したりと、舞踊の研究が可能になる。
5.コンピュータ内で身体運動をどのようなデータで表現するか、という
内部表現への活用として見直されている。
舞踊だけでなく、コンピュータグラフィックスやロボティクスなどの
分野への広がりも期待できる。
これを読むと、作るためにも、保存するためにも、伝達するためにも、
使えそうなものであることはわかる。
特に興味深いのは「コンセプト」が書かれたものだ、という点。
音楽の譜面だろうが、機械図面だろうが、
肝心なのはそこに書かれた「コンセプト」だ。
それは、採譜の際にも、ノーテーターの意識として反映されることになる。
記述譜の例としては、演奏をなんらかの方針で記録した採譜(transcription)が挙げられる。
しかし、採譜は、どんなに正確にまた詳細に行ったところで、
音楽のあらゆる面を記録することができるわけではない。
舞踊の動きを完全に記録することができないのも同様である。
よって、採譜のときには、
その舞踊のもつ関与性を考慮に入れた記述をおこなう必要がある。
すなわち、かかとを床につけることが必要なのか、
それとも、そのときの足首の角度が重要なのか、
二人が向き合って立つことが必要なのか、
それとも、そのときの各自の空間に対する方向が重要なのかといったことを
採譜する際に見極める必要がある。
実際にはどのような記述方法があるのだろう。
ヨーロッパでは、古くから舞踊を記譜する試みが行われてきた。
アン・ハッチンソン(Ann Hutchinson)は、その著書『CHOREO-GRAPHICS』の中で、
それらの舞踊譜をタイプ別に
1.文字・単語方式、
2.軌跡の描画方式、
3.Stick Figure(視覚的)方式、
4.音符方式、
5.抽象記号方式
と分類し、各舞踊譜の比較検討を行っている。
他の資料でもよく目にする代表的なノーテーションは、
ベネッシュ・ノーテーションとラバノーテーションだ。
上のタイプ別分類に当てはめてみると、それぞれ、
Stick Figure(視覚的)方式と抽象記号方式ということになる。
(1)ベネッシュ・ノーテーション
ベネッシュ・ノーテーションは、ベネッシュ夫妻(Rudolf and Joan Benesh)によって
バレエの動作単位であるパ(pas)を記述するために考案されたもので、
1949年にその原型が作られた。
人間の骨格を模した(人の形をした)図案で視覚的に表わすStick Figure(視覚的)方式。
さまざまな抽象的な記号も加えられ複雑な体系を持つものになっている。
英国ロイヤルバレエ団の舞踊は、専門のベネッシュノーテーターによって
現在でも記譜されている。
また、日本の新国立劇場でも、バレエ作品の記譜にこの記譜法が用いられている。
(2)ラバノーテーション
ルドルフ・フォン・ラバンRudolf von Laban(1879-1958)の考案したLabanotationは、
動きを記号を用いて記述することを可能にしたもので、
音楽の五線譜を縦にしたような形をしており、下から上へと読み進む抽象記号方式。
ダンスがしっかりとした研究対象となるためには、その調査、分析のため、
ダンスそのものが記述されたものが必要である、と考案された。
中央の縦線が身体の中心線を表し、中心線の右側に身体の右側の動作を、
左側に身体の左側の動作を、記号を用いて記述するため、
踊り手が譜面を読みながら動きを再現しやすいという特長がある。
足や手の動きといった身体各部の詳細な動作についても記述可能であり、
特定の舞踊様式に依存しない現時点で最も普遍的な舞踊記譜法である。
このことから、Labanotationは、舞踊を記録し分析するための方法論として
欧米の研究者に広く用いられており、大学の舞踊科や人類学科の必修科目にもなっている。
ダンスの初等教育~高等教育の現場においても、音楽における楽譜のように、
身体表現の創作能力を高める手段として用いられている。
日本舞踏に関してはどうだろう。
日本舞踏には『標準日本舞踊譜』がある。
『標準日本舞踊譜』は、「譜語式」と呼ばれるもので、記号の代わりに一定の言葉、
すなわち「譜語」を、分節された動きや姿勢の一つ一つに対して与えていく方法。
個々の譜語の表す意味をはじめに明確に定め、
それを配列する上での規則を決めることによって詳細な記譜を可能にする。
また、譜語を口ずさむことにより、口伝えに振りを移すこともでき、
口承可能な舞踊譜ともいえよう。
譜語が作成され始めた江戸時代以降、
その整理と名称の選定に重点をおいた研究が続けられてきており、
譜語を最も体系的に整理した西川巳之輔の研究成果を元に、
『標準日本舞踊譜』は作られたという。
以上、学術的な見地からすると、
「舞踏譜」は、その有効性も可能性もおおいに期待できるし、
これまでにもさまざまな工夫が重ねられてきたようなのだが、
特定の分野を除く一般的な普及度という意味では、
いまだに相当に低いと言わざるを得ないようだ。
舞踏評論家の鈴木晶さんが、「バレエ、消える芸術」(2005年「学燈」秋号)と題して
こんなことを書いていた。(以下薄茶部分)
書き出しは、こんな感じだ。
舞踏史を研究する者は、思想史家や文学史家に激しく嫉妬する。
音楽史家に対しても。
文字で書かれたものは、たとえ2400年前のプラトンの著作だって、自分で読み、
研究することができる。
美術にしても、1万年以上前のラスコー洞窟画を自分の眼で見ることできる。
音楽だって、最後の楽譜は紀元前まで遡るから、
太古の調べを自分の耳で聴くことができる。
それに比べて、昔の舞踏は悲しいくらいにわからない。
で、「舞踏譜」についても簡単に紹介している。
舞踏にも「舞踏譜」(ダンス・ノーテーション)という、楽譜に相当するものがある。
すでに17世紀フランスではかなり精密な舞踏譜が考案されていた。
ところが、舞踏譜によって記録されている作品は驚くほど少ない。
ごくたまにしかないのである。
これは楽譜と舞踏譜とが、似て非なるものであることによる。
右に述べたように作曲家はたいてい楽譜で作品を発表するが、
舞踏譜を用いて舞踏作品を創作する振付家はいない。
ではどうやって作品をつくっていくかといえば、
生身の人間、すわなち自分自身あるいはダンサーを使って振り付けていくのである。
舞踏譜は、できあがった作品を記録するために開発されたものであって、
創作の手段ではない。
舞踏譜に記録するというのは、譜面を用いないジャズとか
いわゆる未開部族の歌を採譜する作業みたいなものである。
音楽の伝承は楽譜によるが、
舞踏では、舞踏譜に記録された作品はほとんどないので、たいていは「振り写し」による。
すでに身体でその舞踏を記憶しているダンサーが伝授し、
新しいダンサーはそれを少しずつ自分で覚えていくのである。
これは全盲の演奏家が少しずつ曲を聴きながら暗譜していく作業に似ている。
したがって、ダンサーが振りを忘れてしまったら、
その作品は永遠に失われてしまう。
舞踏譜が広まらない理由は、
舞踏の記録ははるかに複雑で時間がかかるからである。
したがって、舞踏譜の歴史は、
いかに短時間で簡単に舞踏を記録できるかという課題への挑戦の歴史である。
現在もっとも広く使われているラバノーテーションやベネシュ・ノーテーションでも、
まだ膨大な時間がかかる。
ビデオで撮ればいいと思うかも知れないが、見えない部分があったりして、
じつはビデオはかなり不正確なのである。
正確さを増すために最近ではモーションキャプチャーを利用したりもしている。
一方、写真すらなかったころの古い踊りについては、
当時の絵画や舞踏批評も参考にしたりするが、
いずれにせよ、消えてしまった舞踏の情報取得は相当にむつかしい。
ワスラフ・ニジンスキーという不世出のダンダーがいる。
彼が国際的に舞台で活躍していたのは1909年からおよそ十年間である。
映画はすでに発明されていたから、記録しようと思えばできたはずであるが、
ニジンスキーの映像はまったく残されていない。
写真はあるが、「動くニジンスキー」を見ることはできないのである。
ニジンスキーが数年間所属していたバレエ・リュスというバレエ団は、
バレエ史上最も有名なバレエ団である。
ディアギレフを団長として、1909年から29年まで活動していた。
当時、バレエといえばバレエ・リュスというくらい、一世を風靡したバレエ団だった。
だが、このバレエ団の映像もまったく残されていない。
時期的にはじゅうぶんに記録可能だったにもかかわらず、
先に触れた舞踏譜も残されていない。
バレエ・リュスは欧米各地を巡演する、いわゆるツアーリング・カンパニーで、
いわばその日その日の公演をこなすだけで精一杯で、
映画を撮ったり舞踏譜に記録したりする余裕がなかったのである。
だが、理由はそれだけでないような気がする。と次のように続けている。
舞踏に関係している人たちは、どうも記録に対する情熱が
さほどないように思われる。
むしろ、残したくないと思っているのではないか、とすら感じられる。
・・・
ダンスの世界の人の間では、
ダンスは一瞬にして消える芸術だという意識が強いようだ。
・・・
それともうひとつ、
映像を通したダンスは生の舞台とはまったく別物だという意識も強いように感じられる。
だから、ビデオにとって記録することにも、ビデオを売り出すことにも、
消極的なのである。
そのときその場にいなかった人は永久に見られない、それでいいのだ、
というわけである。
これは舞台芸術全般にいえることで、家でソファに寝そべりながら見る、
というわけにはいかないのである。
「その場限り」の独特な輝きこそが魅力の舞台芸術。
私はときどき芝居も観るが、あのトリップ感もまさに「その場限り」だ。
なので、それはそれでいいじゃないか、という気もしている。
それは「口パク」とは正反対の世界だ。
残るのは踊りではなく、「その場にいた」観た人の感動のみ。
のちの世の人はくやしいだろうが、形自体を残すことが重要なのではないのかもしれない。
ただ、中村さんの書いた
舞踊譜には、「コンセプト」が書かれている。
は、いい言葉なので繰り返しておきたい。
コンピュータやセンサの進歩により、ナンにつけ、精緻なデータ化による「正確な記録」だけが
クローズアップされることが多いが、
伝えなければいけないのは、表現しなければいけないのは「コンセプト」のほうだ。
もちろんこれは「舞踏譜」に限った話ではない。
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