学而 浅田次郎
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学而 浅田次郎
2月、入学試験のシーズンだ。
入学試験と聞くと、思い出す文章がある。
浅田次郎さんが「小説新潮」(2001年1月号)に寄せいていた、わずか数ページの短いもの。
「ホステスの衣装」と「辞書」と「母の愛」
この時期になるとつい読み返してしまう。
浅田次郎
東京オリンピックの前年のことである。
私はどうしても私立中学を受験すると言い張って、貧しい母を困らせた。
生家は数年前に没落し、家族は離散していた。
しばらく遠縁の家に預けられていた兄と私を、母はようやく引き取って、
とにもかくにも六畳一間に三人の暮らしが始まったばかりであった。
母はナイト・クラブのホステスをしていた。
当時の私立中学は教育熱心な裕福な家庭の専有物であった、と続けている。
私の人生まで変えられたのではたまらぬ、と考えたからである。
家産が破れたのちも、私は選良としての意識をかたくなに抱き続けていた。
繁栄に向けて日本中がせり上がってゆく槌音(つちおと)が、
昼夜分かたず私を苛(さいな)んでいた。
結局、お母さんはわがままを聞いてくれた。
花見のような弁当持ちで少年に付き添う試験場に、私はひとりで臨んだ。
家に帰って、そういった本物の選良たちには到底かなわない、という気持ちを漏らすと
「おとうさんやおかあさんが試験を受けたわけじゃないんだ。
おまえが誰にも負けるはずはないだろう」と言ってくれた。
合格発表の日、母は夜の仕度のまま私と学校に行ってくれた。
盛装の母は場ちがいな花のように美しかった。
私の受験番号を見上げたまま、母は百合の花のように佇(たたず)んで、
いつまでも泣いていた。
その日のうちに制服の採寸。そののち
小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、
大修館の中漢和を買い揃えてくれた。
おかげでその後、浅田さんは吊り鞄のほかに、
三冊の大辞典を詰めたボストンバッグも持って通学することになる。
私に何ひとつ教えることができなかった。
三冊の辞書には言うに尽くせぬ思いがこめられていたのだろう。
全二十編におよぶ「論語」は、その第一編「学而編」の冒頭にこう記す。
子のたまわく、学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや。
私はおしきせの学問を好まなかったが、常に自らよろこんで学び続けてきた。
今も読み書くことに苦痛を覚えたためしはない。
その力の源泉はすべて、母があの日、
「えらい、えらい」と
泣きながら私に買い与えてくれた、三冊の辞書である。
そうした出自を持つ浅田さんは、
どうしても、コンピュータの前に座ることができない、と言う。
机上にはいまだに、朽ち破れた三冊の辞書が置いてある、と。
そして、こう結んでいる。
癌を宣告されてからもけっして子供らの世話になろうとはせず、
都営団地にひとり暮らしを続けた末、消えてなくなるように死んでしまった。
七十三の享年に至るまで、たおやかな一輪の百合の花のように美しい母であった。
遺された書棚には私のすべての著作に並んで、小さな国語辞典と、
ルーペが置かれていた。
あの日から、三冊の辞書を足場にしてひとり歩きを始めた私のあとを、
母は小さな辞典とルーペを持って、そっとついてきてくれていた。
そんなことは、少しも知らなかった。
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