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2012年11月

2012年11月28日 (水)

トルコ旅行記2012 (24) イスタンブール ヒッポドローム編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(24) イスタンブール ヒッポドローム編


2012年7月16日

いよいよ最終日。午後の飛行機で日本に帰る。

朝一、ブルーモスクをもう一度覗いてみた。

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一度目の訪問時は午後、今回は朝、と時間がまったく違うため印象が大きく異なる。
光の向きや色が、いかに大きな影響力を持つかを痛感。
でも、いつ見ても息をのむほどに美しい。

 

【ヒッポドローム】

ブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャーミィ)の西側は広場になっている。
ここは、競馬や戦車競争が行われていた大競技場の跡。
時代も場所も違うが、戦車競争そのものは映画「ベン・ハー」の世界だ。

ギリシア語でヒッポは馬、ドロームは道、
今はトルコ語で「アトゥ・メイダヌ(馬の広場)」と呼ばれている。

元となった競技場は、イスタンブールが東ローマ帝国の首都(コンスタンティノープル)となるよりも前、
ビザンティオンと呼ばれていたころに建造されている。3世紀初頭の話。

その後、ローマからビザンティオンに遷都した皇帝コンスタンティヌス1世が、
4世紀、この競技場を大幅に拡張した。

その結果、U字形のトラック部をもつ、長さ約450m、幅約140m、
観客収容人数10万人という、まさに「大」競技場となる。

7世紀ごろまでは、年間100日以上も戦車競争が開催され、
莫大な金額が賭けられていたというのだから、
「パンと見世物を」が維持できた東ローマ帝国の底力を感じないわけにはいかない。

また、戦車競争は単なるイベントではなく、
皇帝と一般市民が同じ場所に会するという他にはない特別な機会を提供していたことにもなる。

競技場は、競技以外の政治的なイベントや公開処刑の場としても使われていた。

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一方、競争チームはスポンサーとしての政治勢力と深く絡んでいたため、
その抗争は内戦にまで発展することもあった。

特に、532年に勃発した「ニカの乱」は帝国をゆるがす反乱となり、深刻な被害をもらたした。
最終的に暴徒は、計略によりこの競技場に追い込まれる。
そこで約3万人が殺害されたと言われている。

また、この反乱では、アヤソフィアなど重要な建築物が数多く破壊されてしまった。
現在のアヤソフィアは、ニカの乱の後にユスティニアヌス1世が再建したものである。

7世紀以降は競争の回数も激減。
東ローマ帝国は1453年まで続いたが、そのころには競馬場は廃墟と化していた。

その後のオスマン帝国では、戦車競争を楽しむことはなかったが、
その跡地を完全に別の建物で覆ってしまうことはしなかった。

広場として残り、今は3本の柱が残っている。

 

【テオドシウス1世のオベリスク】

台座を入れた高さ25.6m。

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オベリスクは4面にレリーフの施された大理石の台座の上に立っている。

このオベリスクは、元々はエジプトのカルナック神殿に、紀元前1490年に建てられたもので、
元は高さ30m、重さ400トン程度だったと推定されている。

テオドシウス1世は、これを3つに分割して、はるかエジプトから運ばせ、
390年、ここに建てた。
現存しているのは一番上の19.6mの部分のみ。
つまり、四面にヒエログリフが刻まれているオベリスクの本体は、
「3500年前のもの」ということになる。

刻まれている碑文では、紀元前1550年のトトメス3世の軍事的偉業をたたえている。
彼はエジプト王朝の版図を最大にまで拡げたファラオ(王)だ。

ちなみに、40年前の「仮面ライダー」に登場したエジプタスという怪人は、
このトトメス3世の隠し財宝の所在を知っていたらしい。(by Wikipedia)
ツタンカーメンのような姿はおぼろげながらに覚えていても、
さすがにそんな詳細なことまでは覚えていない、と言うか
子供向け番組に、そこまでのネタ探しをしていた当時のスタッフの苦労が偲ばれる。
が、では、財宝はどこにあったのか。日本にないと番組にならない。
やっぱりこの件、詳細まで覚えていなくてかえってよかったかも。

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閑話休題、ビザンチン時代の台座のほうは、テオドシウス1世の命により作られたもので、
古代の自然主義的三次元表現から中世の表現主義的二次元表現への移行を示す、
美術史上重要な作品と言われている。

レリーフには,テオドシウス1世とそのファミリーや側近がヒッポドロームにおける
レースを観戦しているところや, オベリスクがどのように立てられたのか、の話が描かれている。

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台座の風化具合には千六百年という歴史を感じるが、それでもかなりきれいに残っている。

それにしても、オベリスク本体が3500年前のもので、かつ、
西暦390年にここに建てられて以来ずっとここに立っている、という話は
日本史年表しか頭にない私にはプロットのしようがない。

 

【蛇の柱】

コンスタンティヌス1世が、帝国全土から芸術作品を集めさせた時の物の一部。
高さ8m。青銅製だが途中から折れている。

ギリシアのアポロン神殿から運ばれたもの。
もとは、紀元前5世紀にギリシア都市国家がペルシア戦争の戦勝記念に建てたもの。

オスマン帝国時代の細密画には蛇の頭部が描かれているため、
元は頭部があったと思われる。第4回十字軍の最中に破壊または略奪されてしまった。

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【コンスタンティヌス7世のオベリスク】

コンスタンティヌス7世は10世紀の皇帝。
もともとは金メッキされた青銅製の板で覆われていたが、こちらも第4回十字軍に略奪された。
石積みの中核部分が残っている。

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3本の柱は、どれも少し掘った穴の中から立っているように見える。
これは、かつての地面が今の地面よりも低い位置にあったから、が理由。

 

このあと、歩いてエジプシャン・バザールを目指す。

 

朝のアヤソフィア。何度見ても存在感がほかの建物とはちがう。

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上に書いた「ニカの乱」で破壊されたため、現存するアヤソフィアは再建されたものだが、
それでも537年のものだ。

 

【エジプシャン・バザール】

元々は、すぐとなりにあるイェニ・ジャーミィを維持するために作られた市場。
賃料が維持のための資金となる。

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エジプトからの貢ぎ物を集めて設営されたことからエジプシャン・バザールと呼ばれるが、
香辛料の店も多く、別名スパイス・バザールとも呼ばれている。

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色とりどりなのはスパイスだけではない。ドライフルーツ、お茶、オリーブなどなど。

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観光客だけでなく、地元の人も多い。

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グランド・バザールよりはずっと小さいが、生活臭が強く、個人的にはこちらのほうが好み。

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裏通りもすごい賑わい。

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旅行最後の土産をここエジプシャン・バザールで買った。

 

さあ、観光もいよいよここまで。

 

空港まではトラムと電車を乗り継いで行った。
途中で一度チャージしたが、最後の最後まで、イスタンブールカードはフル回転。
自力でイスタンブール観光をする人には絶対にお薦めだ。

一枚あれば二人で使えるし、バスにも、トラムにも、電車にも乗れる。しかもわずかだが割引もある。
とにかく、小銭を用意する手間から解放されるだけでも利用価値大。

バスもトラムもようやく慣れてきたところなのに、お別れだ。やはりさみしい。

 

空港到着。無事チェックイン。

残ったトルコリラを使って最後のトルコ食。

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塩味ヨーグルト「アイラン」はこんなパッケージのものもあった。

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今度はもちろん飛行機も乗り遅れ無し。
2012年7月17日、夫婦揃って元気に帰国。

 

そうそう、
第1回出発編の冒頭で書いていた「セン・デ・ギョル」は結局どうなったかって?

旅行期間中、もちろんいつでも機会を伺っていた。
ただ、個人旅行とはいえ、回りには各国からの観光客がいることが多く、
くしゃみをしてもトルコ語の「チョク・ヤシャ」が聞こえてこないのだ。

というわけで、結果としては一度も使うことはできなかった。
残念と言えば残念だが、
この旅行記を読んで下さった方にはわかっていただけると思うが、
正直に言うと、途中から、そんなことはもうどうでもよくなっていた。

 

旅行は、特に個人旅行は、出発前から旅が始まっている。

どこに行くか、どんなところか、どうやって行くか、どこに泊まるか、
関連書籍やガイドブックを見ながら、いろいろ想像し、
ひとつひとつ自分たちで決めていく過程自体がもう完全に旅行だ。

荷物をどこに預けるか、預かってもらえなかったらどうするか、
事前にわかることもあれば、いくら調べてもちっともわからないこともある。

「セン・デ・ギョル」もそんな下調べの中から見つけた楽しみのひとつだった。
塩野七生さんの本を夫婦で読んで、「ルメリ・ヒサール」と「城壁」は絶対に本物を見に行きたい、
と思ったのも、同様の楽しみ方のひとつだ。

 

でもそれはある意味、出発「前」の旅で、
実際に行って、その場に身を置くと「現実」はそれらをみんな吹き飛ばしてしまう。
「前」に準備したことなんて、ほんとうにささやかな「きっかけ」にしかならない。
「その場にいること」の豊かなこと。楽しいこと。

より効率良く回れたり、より少ない出費で回れたりすると、
なぜか「勝った」ような気分になってしまうという
根っからの貧乏根性は否定しようがないが、それでも

 * 数をこなすことを目的としないようにしよう。
 * 気に入ったところでは可能な限りゆっくり観よう。
 * 効率が悪くても、失敗があっても、それも旅の一部。過程自体を楽しもう。

の三点は、いつも意識して動いていた。

 

たとえば、ルメリ・ヒサール。何時間居たことだろう。

急いで見れば30分程度でも充分回れる広さだ。
ルメリ・ヒサールの回にも書いた通り、全体としては単純な構造だし、
古い大砲が少し並んでいるものの、鉄鎖以外に展示物があるわけでもない。

そんな中、六百年前の城壁に登り、落ちないように気をつけながら上をそろそろと歩き、
要塞全体を、ボスポラス海峡を、そこを行く船を、対岸のアジアを、
ぼんやりと眺めてみる。

しばらくしたら、一度降りて、また違う部分の城壁に登り、
違う角度から同じようにただ眺めてみる。

日差しはジリジリと暑く、城壁の石組みはゴツゴツとしていて、
椅子があるわけでももちろんない。
そんな中、ただ眺めているだけ。

でも、「その場にいる」ときはそれがほんとうに楽しかった。

目を閉じると

「あぁ、来てよかった」

という言葉しか浮かばないが、ちっとも飽きることはなかった。

 

夫婦共々、まさに個人旅行ならではの自由を満喫しながら、
そういった思いを、今回の旅行では何度も経験することができた。
エフェソス遺跡で、カッパドキアで、イスタンブールで。
「その場にいること」以外はもうどうでもいい。
「セン・デ・ギョル」もどうでもいい。
「あぁ、来てよかった」としか表現のしようがない満足感。

ちょっと考えると矛盾しているようだけれど、
事前に準備したことがどうでもよくなってしまうような旅、
それこそが実はほんとうにいい旅なのかもしれない。
事前準備を「実行」することが旅の目的ではないのだから。

 

十日間、「暑い、暑い」と言いながら歩きまわった夫婦の旅も、いよいよおしまい。

 

なにかのご縁でこの旅行記を読んで下さった方々、ほんとうにありがとうございました。

こうして旅行記を書くことで、「前」だけでなく「後」も旅行を楽しむことができました。
トルコのテレホンカードもイスタンブールカードもまだ手元に残っています。
もう一度行かねば。

 

トルコでは誰かがくしゃみをすると近くにいる人が
「チョク・ヤシャ」(長生きしてください)と言う。
言われたほうは礼儀として
「セン・デ・ギョル」(それを見るくらいあなたも生きてください)
と返すことになっている。

     高橋由佳利 「トルコで私も考えた(1)」

 

おもしろい。
Bless you! よりもかなり気が利いている。
「旅行後」の旅行記を書き上げた今、今はもう次の「旅行前」の気分です。
今度こそ使ってみせましょう。

「チョク・ヤシャ」(長生きしてください)
「セン・デ・ギョル」(それを見るくらいあなたも生きてください)

 

トルコ旅行記 完 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月25日 (日)

トルコ旅行記2012 (23) イスタンブール カーリエ博物館編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(23) イスタンブール カーリエ博物館編


2012年7月15日

城壁を見たあと、「カーリエ博物館」を見学する。

建物自体は、11世紀に正教修道院として建てられたもの。
「コーラ修道院」とも呼ばれるが、コーラとはギリシア語で「郊外」の意味。
市街からは少しはずれた、テオドシウスの城壁のそばにある。
建築後、増改築を繰り返したが、オスマン帝国の時代になるとモスクに改装されてしまう。

モスクへの改装にあたっては、
聖堂内部の装飾が麻布と漆喰によって塗り込められ、
メッカの方向を示すミフラーブが作られ、
ミナレットが追加され、とアヤソフィアと同じような対応が取られている。

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20世紀、トルコ共和国になってから、漆喰が剥がされ、
その美術的価値が認められて博物館となった。
正教会からモスクに、そして博物館に、という経緯もアヤソフィアと同じだ。
ただ、建物の大きさというか規模はずっとずっと小さい。

それでも、旧市街の中心地から少し離れたこの博物館に、
多くの観光客が訪れるのは、その中身、特にモザイク画とフレスコ画の質と量が
まさに圧倒的にすばらしいからだ。

 

【アナスタシウス(復活):フレスコ画】

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イエスがアダムとイブを引き上げる場面。ビザンチン美術屈指の名画と言われている。

 

【聖母子と天使のドーム:フレスコ画】

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正教とイスラム教がぶつかった歴史のある場所ではよく見かけるが、
イコンの目や顔は傷つけられていることが多い。

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【最後の審判:フレスコ画】

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聖堂の内陣にあるモザイクに寄ってみる。どなたの足もとかと言うと・・・

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【ハリストス(キリスト):モザイク画】

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【生神女就寝(コイメシス・眠りの聖母):モザイク画】が扉口上部にある。大理石も美しい。

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窓枠にもモザイクによる装飾が。

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【聖母とキリスト:モザイク画】

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ここまで拡大しても、モザイクであるかどうか、わからないほどなめらかな顔の表現。

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モザイクで描かれている場面は全部で180以上。ビザンチン美術の傑作と言われているのもうなずける。

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多くのモザイク画は13~14世紀にかけてのもの。

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一部剥がれてしまっているものもあるが、どの作品もすばらしく、密度が濃い。

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ただ、狭いところで上ばかり見上げているので、首が痛くなってしまう。

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14世紀にこれらのモザイクを追加製作させたのは、テオドル・メトキテスという
宰相にまでなった上流階級出身の人物だが、彼は後に失脚して全財産を没収され、
修道士としてここで余生を送ったという。

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ミュージアムショップの上にもモザイク画。店用の飾りではなく本物。
本物のモザイク画の下に店を作っている。

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小さいけれど、ほんとうに見応え充分の博物館だった。

 

博物館の前には、こんな雰囲気のいいレストランが。水タバコを楽しんでいる人もいる。

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再び路線バスに乗り市街地まで戻ってきた。

 

夕食は、最後の晩なので、少し落ち着いた感じのレストランに入った。

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まずはエフェスビールでこの旅行に乾杯し、食事に合わせてトルコワインでも、なんて考えていたのだが、
ロカンタ(大衆食堂)などに比べるとずっとおしゃれな店なのに、メニューを探しても酒類がない。

聞くと
「アルコールは一切おいてないンです」
「えぇ!」
そう言えばここは位置的にモスクのすぐそばだった。しかたがない。これもまたトルコならでは制約だ。
料理だけをじっくり味わいましょう。

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料理はどれも申し分なし、◎。 最後はトルコ・コーヒーと甘いデザートで。

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食後、夜のブルーモスクを見に行く。ライトアップされていて、夜は夜で美しい。

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アヤソフィアも正面に見える

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夜のアヤソフィア

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トルコ旅行最後の夜が更けてゆく。

 

今日はここまで。

 

お別れに、ちょっとだけ技術系のネタを。
この写真はカーリエ博物館で撮ったものだが、カーリエ博物館に限らず、
こんな観光ガイドをイスタンブールではよくみかけた。

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アプリケーションのインストールが必要なようだが、スマホで展示物前にあるQRコードを読むと、
その説明が聞けるというもの。
ここイスタンブールでも、iPhoneの普及率というか見かける率はほんとうに高く、
スマホを利用した観光ガイドも、いまや特別なものではないのかもしれない。 

と同時に、日本発の規格ながら海外ではあまり使われていないとずーっと言われていたQRコードを
こんなインターナショナルな観光地の、一番目立つ場所でたくさん見かけるようになるなんて・・・

 

(24) イスタンブール ヒッポドローム編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月22日 (木)

トルコ旅行記2012 (22) イスタンブール テオドシウスの城壁編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(22) イスタンブール テオドシウスの城壁編


2012年7月15日

(トルコ旅行記を順番に読んで下さっている方に対しては)閑話休題。

軍事博物館でメフテルハーネの演奏をゆっくり聴いていたら、すっかり時間が遅くなってしまった。
このあと郊外まで行って、テオドシウスの城壁とカーリエ博物館を見なければ。

バスで行くとどのくらい時間がかかるのだろう。

バスで城壁までは行けるとしても、カーリエ博物館を見る時間はあるだろうか。
博物館は何時までやっているのだろう。
手元にある2冊のガイドブックを見ると、書いてある閉館時間がぜんぜん違う。

初日に買ったテレホンカードがあるのを思い出した。
さっそく電話して閉館時間を確認。今度は使い方も一発でバッチリだ。
午後6時までやっている、とのことだったので急いで目指すことにした。

「ここから乗ろう」のバスターミナルに着くと、ちょうどバスが動き出した直後。
カッパドキアでの如く、動き出したバスを止めようとすると
運転手の「ダメダメ」のサインのもと、あっさり無視された。
調子づいてはいかん。ここはイスタンブールだ。カッパドキアではない。

次のバスを待って、城壁に向う。
アタチュルク橋を渡って、ヴァレンス水道橋下をくぐって、と路線バスのルートも楽しい。
エディルネカプという、とても一度ではちゃんと読めないような名前のバス停で降りた。

 

【テオドシウスの城壁】

バス停を降りて城壁を探しながら歩きだすと、
道に沿うように遠くまで延びている城壁が見えてきた。

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自動車道に沿うように、というのは実は逆で、
城壁に沿うように自動車道が伸びている。

城壁の「壁」そのものは、この位置からでは見えないが、
自動車道左側に塔が並んで建っている様子がわかるだろうか。
塔と塔とを繋ぐように城壁が残っている。

まず最初に、城壁の全体像と、今どのあたりにいるのかを、
簡単に確認しておきたい。

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この地図の真ん中、灰色の三角形部分が
コンスタンティノープル(のちのイスタンブール)だが、
三角形の左斜辺、太い点線部分がテオドシウスの城壁だ。
今は赤丸の位置に立っていて、付近に残っている城壁を見ている。

テオドシウスの城壁は、
金角湾からマルモラ海にまで約7キロメートルに渡って延びている城壁で、
ビザンチン帝国テオドシウス二世の時代に建造された。完成は413年。
もう一度書く。413年だ。

以後、

616年と626年にペルシア
717-718年にアラブ
813年にブルガリア
864年と904年にロシア
959年にハンガリー
1043年に再びロシア
1391年と1422年にオスマン帝国

と数々の敵国が攻撃を仕掛けてきたが、いずれの場合もこの城壁を打ち破ることには成功していない。

一千年以上に渡ってコンスタンティノープルを守ってきた、まさに難攻不落の城壁は、
いったいどういう構造になっているのだろう。

塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」の挿絵が一番わかりやすかったので、
それを参考に絵を書いてみた。
こんな、三重構造になっている。

 

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日本・トルコ協会のホームページには、以下のような説明もある。

内城壁は厚さ5m、高さ8-12mで、内城壁と外城壁の間に幅15-20mの通路がある。
外壁は厚さ10m、高さ8.5mで、その外側に高さ2mの胸壁、
外城壁の外には幅20mの濠がつくられた。

96の高さ18m-20mの物見塔は内壁と外壁に交互に55mおきに配置されており、
そのほかに、小さな秘密扉、一般用と軍事用の門が各5で計10の門が設けられた。

 

全体で60メートルを越える「厚さ」の壁だ。
最初の写真で自動車道わきに連なって見えたのは、この物見塔ということになる。

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内城壁に相当するまさに壁の部分はこんな感じだ。

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千六百年という途方もない時間と幾多の戦争で、すでに崩れている部分も多いが、その厚さ、高さには驚く。

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今回も、塩野七生さんの本を拠り所に往時に思いを馳せてみたい。

このような水色部分は、
塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」からの引用を示している。

 

城壁を目の当たりにした我々も、1452年に城壁見物をしたニコロとまさに同じ反応をしていた。

この内城壁を突破することはほとんど不可能に近いと、
ニコロも讃嘆の声をあげずにはいられなかった。

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ところがこの城壁も1453年、オスマン帝国マホメッド二世の攻撃に遂に破られてしまう。

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ここでは、オスマン軍が使った「ウルバン砲」という大砲についてちょっと紹介しておきたい。

ウルバンの巨砲と呼ばれるこの大砲は、これまでに誰一人として見た者はいないほどの怪物だった。
砲身の長さは八メートル以上もあり、石弾の重さは六百キロを越えるかと思うほどだ。
大砲を乗せて動かす砲台も、三十頭の牛が左右に並んで引っぱらないと動かない。

七百人もの兵が附きそってスルタンの宮殿の前に運ばれてきたこの巨砲は、
撃ち初めも、アドリアーノポリの住民に、怖しい音がしても驚かぬよう布告をだした後で行われた。

第一弾が発射された瞬間の響音は、二十キロ四方にひびきわたり、大石丸は、風を切る
怖しい音を後に残して一キロ半も飛んだ後、大音響をたてて地表から二メートルもめりこんで止まった。

 

マホメッド二世は、この重い大砲をアドリアーノポリからコンスタンティノープルに運ぶため、
道路の整備まで命じている。

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だが、大砲を操作する側も、すべてがうまくいっていたわけではない。
土台のつくりが充分でないのか、砲丸を発射するたびに、大砲は左右にひどくゆれ動く。

土台からころがり落ちるものもあった。

とくに、巨砲は、操作がいっそう困難なためか、注意に注意して操作しても、
一日に七発しか発射することができなかった。

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この大砲を使った攻撃が始まったのは1453年4月。

そして、心臓がちぢんでしまうようなこの轟音が、これから七週間もつづくことになるとも、
誰一人、思ってもみなかったのである。

 

最終的に、このウルバン砲そのもので城壁を打ち破ったわけではないのだが、
こんな化け物みたいな大砲をも採用していたことに、
マホメッド二世のコンスタンティノープル陥落への執念を感じないわけにはいかない。

一方で、この大砲に関する話を読む時、まんがのような滑稽さを感じてしまうのはなぜなのだろう。
重さ六百キロの砲丸を一キロ半も飛ばす。でも一日七発しか撃てない。
命中率も悪かったらしい。
開発者はハンガリー人、ウルバン。なのでウルバン砲。名前でも損をしているのかもしれない。

 

崩れた城壁の向うに見えるのはミフリマー・スルタン・ジャーミィ。
城壁の門の部分の厚さも優に5メートル以上はある。

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そして、陥落五日前。

ビザンチン帝国は、最初の皇帝コンスタンティヌス大帝と同じ名の皇帝の治世に滅亡するという予言を、
あらためて人々は思いだしていた。また、大帝の立像は片手が東方を指していたが、
それは、東方からくる者によって帝国は滅びるという意味なのだ、という者もいた。

昔からの言い伝えの一つに、帝国は月が満ちつつある間は絶対に滅びない、というのがあり、
これまで人々を元気づけていたのだが、二十四日は満月だった。

この後は、月は欠けるしかない。
これが、人々をおびえさせた。

しかも、その満月の夜に、月蝕が起ったのである。
三時間つづいた暗黒の闇は、もともと迷信深いビザンチンの人々にとって、
これ以上の不吉な前兆はないと思えた。

月は、ビザンチン帝国の象徴でもあったのだ。
神が帝国を見捨てられたのだという想いは、彼らの胸に、重くのしかかって動かなくなった。

1453年5月29日

皇帝も、紅の大マントを捨てた。
帝位を示す服の飾りも、はぎ取って捨てた。そして、

「わたしの胸に剣を突き立ててくれる、一人のキリスト教徒もいないのか」

とつぶやいたのを、誰かが耳にしたという。
東ローマ帝国最後の皇帝は、剣を抜き、なだれをうって迫ってくる敵兵のまっただ中に姿を消した。

 

 

今日はここまで。

 

お別れに、新市街のバス停付近でみかけた案内板を。
二千年前の遺跡にも水洗トイレがあったような国の
モダンなトイレって、いったいどんなトイレだ?

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(23) イスタンブール カーリエ博物館編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月18日 (日)

トルコ旅行記2012 (21) ひとやすみ トルコと日本の友好関係編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(21) ひとやすみ トルコと日本の友好関係編

 

トルコ旅行記もいよいよ大詰めだが、今日は、旅行記をひと休み。
トルコと日本の友好関係に関するエピソードを一度ここにまとめておきたいと思う。

「トルコ人は親日的」
よく聞く言葉だが、旅行をしてみるとこの言葉が間違っていないことはすぐにわかる。
「日本人」とわかった瞬間に態度が変わった、という経験もした。

なぜ、親日的なのか?
今回、旅行するにあたって読んだトルコに関するいろいろな本や記事の中には、
この親日に繋がるようなエピソードがほんとうに何度も登場する。

それらのうちのどれかが、あるいは全部が「親日の理由だ」と
簡単に言い切れるようなことではもちろんないが、
トルコとの間にこんなことがあったンだ、は知っていてもいいだろう。

というわけで、ネットや本を読みながらメモったものを並べてみたい。
ソース(出典)ごちゃまぜの寄せ集めだが、読みやすいように詳細を省き、要点のみに絞っている。
ご興味があれば、これらをキーワードにサーチしてみて下さい。

で、話を始めようと思うが、文字ばかりでは寂しいので、
友好のエピソードとは関係ないが、
今回の旅行で訪問した場所の入場券を挿絵代わりに挿入していきたいと思う。

どういうルールに基づいているのかはわからないが、イスタンブール市内だけでなく、
トルコ国内の多くのところで観光地の入場券のデザインが統一されている。
統一感を維持しながらも、よく見ると各施設ごと、ちゃんと特徴ある写真を使っている。
特にコレクターというわけではないが、思わずいろいろ集めたくなるようなデザインだ。

 

エフェソス(エフェス)遺跡

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まずは定番中の定番、「エルトゥールル号遭難事件」から始めたい。
トルコの親日の話をするとき必ずでてくる話なのでご存知の方も多いだろう。
「トルコの遭難船の生存者を日本人が手厚く救護し感謝された」という一言では語れない物語だ。

2012年9月12日の朝日新聞・天声人語では以下のように短くまとめられていた。

先々での親日ぶりは、ガイドさんによると、学校で「エルトゥールル号の遭難」を教わるからだという。
あすで122年になる。明治半ば、当時のオスマン帝国の軍艦が、紀伊半島沖で台風のため沈んだ。

500人以上が亡くなったが、69人が日本艦で国に帰り、沿岸漁民による温かい救護ぶりを伝えた。
かの国の人々は、続く日露戦争の結果にも熱狂する。
日本同様、ロシアの南下圧力を受けていたためだ。

友好は経済援助などを通じて続き、イラン・イラク戦争の際には、在テヘランの日本人が
トルコ航空機で救出された。

この文章で主なトピックスは網羅されているが、補足しながら話を進めたい。

 

エフェソス(エフェス)遺跡 丘の上の住宅

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(a) 遭難と救護
1890年(明治23年)和歌山県串本町沖で、オスマン帝国の軍艦が遭難。
500名以上の犠牲者がでるが、なんとか救出された生存者69名に対して
沿岸漁民が献身的な救護活動を展開。

国も明治天皇の指示により迅速に対応。多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。

日本海軍は遭難事故の20日後には、
生存者をイスタンブールに届けるため「比叡」と「金剛」を出港させた。
この船にはあの「坂の上の雲」の秋山真之が少尉候補生として乗り込んでいる。
2隻の船はオスマン帝国で大歓迎される。

 

カッパドキア ギョレメ野外博物館

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(b) 礼金
オスマン帝国は、沿岸漁民の献身的な救助活動に対して礼金を送るが、
村長はそれを村民に分配せずに銀行に預け、その利息を村のために使うようになる。

 

カッパドキア ギョレメ野外博物館 暗闇の教会

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(c) 山田寅次郎とアタチュルク
一方、個人的に義捐金を集めた山田寅次郎は、
遺族への慰霊金としてトルコに送ってほしいと青木外務大臣を訪ねる。

すると青木は、
「君自身で届けに行き、国交樹立のために働いてほしい」と
ヨーロッパに発つ海軍への便乗を手配する。

山田を歓迎したオスマン帝国の高官は、
「我が国の優秀なる青年士官たちに、日本語と日本の精神論を教えて欲しい」と
山田に依頼した。

教師となった山田の話を聞いた一人が、
1923年に「トルコ共和国」を誕生させた近代トルコの父、ケマル・アタチュルク。

 

カッパドキア ウフララ渓谷

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(d) 共通の敵国ロシア
山田はイスタンブール、ガラタ橋近くで日本の工芸品を扱う店をやる一方、
日ト共通の敵国であるロシアの動きをさぐる諜報活動を展開。
トルコは日露戦争(明治37~38年)中もロシア黒海艦隊の動きを日本に通報した。

 

カッパドキア デリンクユ地下都市

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(e) 日露戦争の英雄
日露戦争での日本の勝利を、トルコは自国の勝利のように喜んだ。

このころ、東郷平八郎に因んで息子に「トーゴーTogo」という名をつけるトルコ人が多くいた。
トルコの女流作家ハリーデ・エディプ(1884~1964年)も自分の息子に「Togo」と名付けた。
首都アンカラには「トーゴー通り」、イスタンブールには「ノギ通り」もある。

 

イスタンブール トプカプ宮殿

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(f) テヘラン日本人救出活動
イラン・イラク戦争中の1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが
「今から48時間後に、国籍に関係なくイラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜する」と布告したため、
イランに住んでいた外国人は空港に殺到した。

ドイツ人やイタリア人が自国の航空会社の臨時便で次々と退去していくなか、
日本人は空港に取り残されていた。

日本政府の対応の遅れ、日本航空の組合の反対、などにより
救出のための日本航空機が飛ばなかったのだ。

もうだめか、と思われたそのとき、テヘラン空港にトルコ航空の特別機二機が到着した。
トルコ航空機は、空港で救出を待っていた日本人215名全員を乗せて、
トルコのアンカラへ向けて飛び立った。

タイムリミット1時間15分前。
トルコ航空が救援に行った理由をトルコ大使は次のように語った。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」

 

イスタンブール トプカプ宮殿 ハレム

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(g) 和歌山の小学生
200名以上の遺体が眠る「エルトゥールル号遭難事件」沿岸の村有地に造られた墓地は、
近くの小学校の児童が学校行事の一部として100年以上に渡って掃除を続けてきている。

 

イスタンブール アヤソフィア博物館

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(h) 100周年切手
1990年、トルコ・日本修交100周年記念切手がトルコで発行された。
そこにもエルトゥールル号が描かれている。

 

 

「エルトゥールル号の借りを返しただけです」

官も民も恩を返してもらえるような国だったのだ。日本は。
今はどうだ。

 

今日はここまで。

 

最後に、このあと訪問するカーリエ博物館の入場券を。

 

イスタンブール カーリエ博物館

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(22) イスタンブール テオドシウスの城壁編に続く。  (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月14日 (水)

トルコ旅行記2012 (20) イスタンブール メフテルハーネ(軍楽隊)編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(20) イスタンブール メフテルハーネ(軍楽隊)編


2012年7月15日

軍事博物館に来たのには、展示物を見る以外にもうひとつ大きな目的があった。
それは、メフテル(トルコの伝統的な軍楽)の生演奏を聴くこと。

どんな編成による演奏なのかはまったく知らなかったのだが、
それほど大人数ではないだろう、と勝手に思い込んでいたので、
専用の大きな演奏会場に案内された時はびっくりしてしまった。

ちょうど日曜日だったせいか、会場もどんどん人で埋まっていく。

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軍楽隊はメフテルハーネと呼ばれている。

やがて屋外から演奏・行進しながら、メフテルハーネが入ってきた。
演奏会場のステージ裏扉が大きく開き、屋外からステージに
そのまま入ってくることができるような構造になっている。
演奏もさることながら、演奏時の服装も一見の価値がある。
皆、口ひげをたくわえている。

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博物館の展示で見た鎖帷子(くさりかたびら)を着ている人もいる。

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特に曲の解説はなく(トルコ語で説明されてもわからないが)
次々と連続して数曲が披露された。

演奏された曲の中には
「ジェッディン・デデン 'Ceddin Deden'(祖父も父も)」もあった。
今から30年以上も前に放送されたNHKのドラマ「阿修羅のごとく」でも使われたこの曲。
YouTubeにいい動画があったので下に貼っておく。

一度でも聞くと忘れられない独特な音色、メロディなので、
覚えている方もいらっしゃることだろう。

まぁ、それにしても音楽はやっぱり生で聴くものだ。

テレビで聞くと、メロディやリズムなど表面的な特異さだけが印象に残るが、
実際に「生」で聞くと音楽そのものをもっと立体的に味わうことができる。

どの曲も、大きな音量で演奏される迫力あるものだが、
少し耳が慣れてくると各パートの楽器の音がだんだん聞こえてくるようになる。

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曲も演奏も、軍楽ゆえ繊細なものではない。

しかし、ズルナと呼ばれるけたたましい音の管楽器、ダウルと呼ばれる打楽器、
よく音が通るシンバル、それらにほかの楽器の音や歌が重なって、
いままで聞いたこともないような音の空間が出来上がっている。

楽器や服装だけでなく行進や指揮者の様子からも目が離せない。

「けたたましい」と書いた、その、一番大きな音を出して、
主にメロディをとっているズルナという管楽器はダブルリードだ。

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オーボエやファゴットの原型らしいが、オーボエやファゴットのような音の繊細さは全くない。

音を発生させる、葦(あし)をうすく削ったリードが2枚ある点はまさにオーボエなどと同じだが、
ズルナは、リード全体を口の中に入れて、リードをフル振動させているらしい。
大きくけたたましい音がでる分、細かい音色のコントロールはできない。
一方オーボエやファゴットは、リード自体を唇で挟んで演奏するため、
音色の細かいコントロールが可能になる。

ちなみに、ラーメンのチャルメラも典型的なダブルリード。
そもそもチャルメラという言葉自体が、「葦」の意のラテン語calamusを語源とした
チャラメラ(charamela)から来ているらしい。

もちろん軍楽隊では繊細さよりもなによりも大きな音が必要。
そういう意味でズルナは重要な要件を満たしている。

 

四拍子系の曲が多いので、ズンズンとどっしり歩いている感じはあるが、
曲に戦意高揚という要素があるか、と聞かれるとちょっと首をひねってしまう。
あれで戦意を煽りたてられるであろうか。
独特な曲調ゆえ、連帯感を感じて士気が高まる、ということは考えられるような気がするが。

実はこの音、敵方にも影響を与えている。
イェニチェリの強さを知っていた他国は、この音を聞くだけで軍隊の存在を知り、
怖気づいてしまったということもあったらしい。

「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」
紀元前の孫子の兵法の時代からまさに最善の戦い方だ。
それにこの軍楽が役だっていたのなら、まさにもうそれだけで十分だ。

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ところで、モーツァルトにもベートーヴェンにも「トルコ行進曲」と呼ばれる曲があるが、
それらとの共通点はどうだろう。
どちらの曲も、ここで聞いたメフテルハーネの曲とメロディが似ているようには思えない。

モーツァルトのピアノソナタ第11番イ長調K.331 通称「トルコ行進曲付き」
有名なトルコ行進曲は第三楽章。この曲だ。

譜面にはALLA TURCA(トルコ風に)という指示があるが、どう弾けばトルコ風になるのだろう。

 

ザルツブルクの大司教と衝突して解雇されたモーツァルトは、宮廷音楽家としてではなく、
当時としてはきわめてめずらしいフリーの音楽家としてウィーンで活躍を始める。
当時のウィーンは、長く脅威にさらされていたトルコに打ち勝って百周年ということで、
逆にトルコの音楽がたいへん流行していたらしい。

この曲の作曲年は正確にはわかっていないが、
第二次ウィーン包囲を打ち破り、トルコ戦に勝利してちょうど百年目にあたる1783年に、
まさにそのウィーンで作曲された、という説が最も有力と言われている。

ザルツブルクからウィーンに拠点を移したモーツァルトは、フリーの音楽家ならではの
形式にとらわれない斬新な曲を発表しようと意識していたのかもしれない。
意外性と流行の取り込みを天賦の才能でまとめている。

意外性はいきなり曲の冒頭にある。
 
まずは速いテンポで始まる、が一般的であった古典派ソナタ形式の時代に、
第一楽章をアンダンテ(歩くような速さで)というゆっくりしたテンポで始めたのだ。

当時の人々にとっては、これだけでもインパクトのある曲作りだったようだ。

 

流行していたトルコの音楽を意識した第三楽章は「トルコ行進曲」として登場する。

この楽章、出だしの部分はたいていこのように演奏される。

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ところが、モーツァルトが書いた元の譜面では、

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となっている。
この短前打音のほうが、まだ「トルコ風」な感じがでるような気がするのだが...

どうして16分音符4つが一般的になってしまったのだろう。

 

今年はグレン・グールドの没後30年ということで、
ラジオでは彼の演奏を聴く機会が多い。
トルコから帰って来て、ラジオで偶然、グールドの演奏による「トルコ行進曲」を聞いた。

グールドとモーツァルトという組合せに、あまりいい予感はしなかったのだが、
聞いてみると、逆な意味で裏切られた。
メフテルハーネの音を意識的に探しながら聞いたからだろうか。

他に例がないほどの低速演奏だが、改めて聞くと
左手、特に頭の拍に強いアクセントをおいた小節の分散和音に
メフテルハーネの音の響きが感じられるのだ。

この曲はそもそも、いろいろな楽器の音色を連想させる
オーケストレーション色豊かな名曲だが、
ちょっと無理やりにでもメフテルハーネの音を探そうとすると、
また新たな別な面が見えてくる。

さすがモーツァルトというべきか、さすがグールドというべきか。

 

お別れに、そのグールドのトルコ行進曲を。

この低速演奏は、初めて聞くとちょっと驚くが、何回か聞いているうちに、
これが適切なテンポかも、とさえ思えてくるから不思議。

 

(21) ひとやすみ トルコと日本の友好関係編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月11日 (日)

トルコ旅行記2012 (19) イスタンブール 軍事博物館編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(19) イスタンブール 軍事博物館編


2012年7月15日

ルメリ・ヒサールをゆっくり見学したあとは、バスで新市街に戻り、軍事博物館を見学した。
ここは入館料のほか、カメラを持ち込むと一台に付8トルコリラの「カメラ入館料」がかかる。

地味な入り口ではあるが、内部はおどろくほど広く、その展示の規模はすさまじい。
とにかく長い長い戦争の歴史がある国なので、
戦法についても武器についても、時代別にものすごい量の展示がある。

大砲等大物もあるが、小さなものでも実物を見せられるとかなりインパクトがある。
たとえばこれ。

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金属製のネットで作られたシャツ。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)。
英語では[MAIL SHIRT 15th century]と書かれていたので、
15世紀の郵便シャツ、郵便シャツって何? と思ってしまったが、それは単に私の単語力不足。
chain mailまたはmailだけで「鎖帷子」の意味があることはあとで辞書を引いて知った。
防刃着として効果があったと思われるが、重さはどの程度なのだろう。

そんな中、全体から見れば地味な展示ではあるが、
江戸時代に徳川家がトルコに送った刀も展示されていた。
もちろん三つ葉葵の紋が入っている。

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他にも、
どうやって持つのだ、というような長い長い鉄砲やら、

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弾が自動補填されるマシンガンの原型やら、

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人間だけでなく戦闘の馬を守る「馬用の鎧」やら、

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とにかく展示物が多く、ゆっくり見ているとどれだけ時間があっても足りない。

 

もちろん、ビザンチン帝国を滅亡させたコンスタンティノープルの陥落関連は
かなり力をいれた展示になっている。

実際に触れたことで、ルメリ・ヒサールでは思わず興奮してしまった金角湾を封鎖した鎖も、
このように長いものが水を意識してか青い光の中に置かれている。
もちろんこちらは触れることはできない、見るだけだ。

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見てきたばかりのルメリ・ヒサール全体の様子がわかる模型もあった。

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さて、前回のルメリ・ヒサール編の最後に触れた金角湾封鎖に対する
トルコ軍の奇策についての話をしよう。

金角湾は文字通り鎖で封鎖された。博物館にはこんな模型もあった。

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写真の中央斜めの線が金角湾を封鎖した鎖だ。

金角湾に船で入れなくなったトルコ軍はどうしたか。

なんと船を陸にあげ、陸上輸送で金角湾の中に船を運び入れることにしたのだ。
しかもそのルートは平坦な地形ではない。丘越えだ。

赤矢印のようなコース。展示にあった地図も添えよう。右側青い点線の部分だ。

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その時の様子について、再び、塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」を参照してみたい。(水色部分)

翌(1453年4月)二十二日も、まだ夜も明けぬうちに呼びだされた不正規軍団の兵たちは、
前日と同じ場所に集まるように命じられた。
だが、その日は、まったくちがう作業が待っていた。・・・
艦隊の陸越えをしようとしているのだ。

セルビアの騎士は、驚きよりも、恐怖で身が震えそうだった。

いったいどうやって陸上を運ぶのか。

木製の軌道には、動物の脂(あぶら)がまんべんなく塗られる。
車輪つきの荷台は、一対で組みにされ、その上には、海中から引きずりあげた船がのせられた。

帆柱には帆も張られる。ちょうど都合良くも、海から丘に向って風が吹いていた。・・・

牛の群れに引かれ、多くの人に押されて、坂になった軌道を船は丘に向って移動し始める。

ガラタの丘の最も高い地点は、海抜六十メートルは十分にある。
頂きに向って押しあげた船は、そこで漕ぎ手を乗せ、
上り坂と同じようにつくられた下り坂の軌道を伝って、
金角湾の中にすべりこむ仕かけになっていた。・・・

七十隻におよぶ船が、次々とそれにつづいた。

展示の模型にはその様子も作られていた。

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金角湾全体の様子。左側に鉄鎖、右側がオスマン艦隊の丘越え。

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次々と丘を越えて運び込まれる船を目の当たりにしたビザンチン帝国側の人々の驚きは、
想像すらできない。

金角湾側の城壁の上にいた監視兵の一人・・・は、
説明の言葉が見つからないとでもいうように、ただ手で前方を指してわめくだけだ。・・・

声もなく立ちつくす人々の視線の向うに、赤字に白の半月の旗をかかげた船が、
次々とすべりこんできたのである。・・・

白昼夢を見る想いであった人々の眼の前で
一団となって金角湾の奥に向うトルコ艦隊は、まぎれもない現実だったのである。

それだけで金角湾の制海権が、敵の手にわたったわけではないが、
その約一ヶ月後、コンスタンティノープルはついに陥落する。

 

今日はここまで。

お別れに、金角湾を失ったころのビザンチン帝国側、ヴェネツィア人やジェノヴァ人の様子を。

ヴェネツィア人もジェノヴァ人も、海の民であるだけに、
海側の守りが完璧でなくなった場合の防衛の困難は、知りすぎるほどよく知っている。

夜の闇にまぎれて、ガラタの居留区から救援物資を運んでくる小舟や、
自らも戦うつもりで防衛軍に志願してくる「ガラタの住人」の数が、
一段と増したのであった。

居留区の許可がないと船もつけられないガラタの船着場に、
ヴェネツィアの船が砲撃を避けて逃げこんでも、
以前のように気まずい空気になることもなくなった。
ヴェネツィア人もジェノヴァ非難の口を閉ざすようになる。

幸福も人々の心を開くのに役立つが、不幸もまた、
同じ役目をすることがあるものだ。

 

(20) イスタンブール メフテルハーネ(軍楽隊)編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月 7日 (水)

トルコ旅行記2012 (18) イスタンブール ルメリ・ヒサール編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(18) イスタンブール ルメリ・ヒサール編


2012年7月15日

まるまる一日を使える最後の日。
今日は今回の旅行でぜひ行きたかったルメリ・ヒサールを始めとする
「私的・コンスタンティノープルの陥落」ツアーの日だ。

朝、ホテルでカギを預けて出ようとすると、フロントの人が
「ちょうどよかった。この人と一緒に行って、イスタンブールカードを買ってあげて」と言う。
フロントには、20代の日本人男性が一人で立っていた。

昨夜イスタンブールカードのことを聞いたばかりだったので、
フロントの方も覚えていたのだろう。
彼も同じようなことを質問していたに違いない。
まさに我々も今日最初に買いに行こうと思っていたカードなのでもちろん了解した。

イスタンブールカードは、Suicaのようなチャージができるカードで、
これがあると、バスもトラムも地下鉄もワンタッチで乗ることができる。
日本のSuciaと違って一枚で複数人が使ってもOKのうえ、
ジェトンと呼ばれる切符代わりのトークンに比べて、ちょっとだけ料金の割引もある。

今日は、バスや電車をいろいろ乗り継ぐ予定だったため、
「回数券のようなものはないか」と尋ね、
「便利だからぜひ買ったほうがいい」と教えてもらったのだ。
これで、いちいちジェトンを買う面倒から解放される。

 

教えてもらったカード売り場までは、ぶらぶら3人で話しながら歩いて行った。
彼も個人旅行の途中。
会社の夏休みが「7,8月中の4日間、好きなよう取っていい」というものらしく、
海の日があるこの週にして9連休にしたとのこと。
ブルガリアにも寄って帰る予定とか。

イスタンブールカード、「ここで売っているよ」と教えてもらったところまで行ったものの、
そこには販売所がなく、少し探してうろうろしてしまった。

駅からの地下通路を抜けた先、新聞スタンドのようなKIOSKで売っていた。
買う時に、お金を渡して任意の額をその場でチャージしてもらう。
売り場の人は観光客に慣れている感じで、2枚買おうとすると、
「大丈夫、一枚を3人で使えるよ」と丁寧に教えてくれた。事情を話し無事2枚購入。

「迷ったせいで、一枚のカードを買うだけなのに、ずいぶん時間がかかっちゃったね」と言うと
「ぜんぜん気にしてません。
 迷ったり、探したりすること自体を楽しめないと個人旅行をしている意味がありませんから」

若者よ、いいこと言うね。
おじさんは思わずメモってしまったよ。

 

彼と別れた我々は、ルメリ・ヒサールを目指した。
バスの路線はよくわからないが、
カバタシュという新市街海側のターミナルまでトラムで行けば、
あとはおそらくなんとかなるだろう。
海岸沿いの道を走るバスならどれでも行けるような気がしていた。

カバタシュでトラムを降りてみると、そこは小ターミナルという感じになっており、
バス乗り場が並んでいた。

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なにもないのも困るが、数が多いのも困る。
待っている人にどのバスに乗ればいいのかを教えてもらう。
イスタンブールカードをゲットしたので、気分が明るいと言うか身が軽い。
小銭を気にする煩わしさから解放されたからだ。

一昨日、ボスポラス海峡クルーズの船から見たリゾート地・別荘地を繋ぎながら、
海岸沿いのルートをバスは行く。
対岸にアジアが見える海側も、リゾート気分いっぱいの海岸沿いの街側も、
景色はほんとうにいいのだが、バスに冷房はなく窓は開けているもののとにかく暑い。

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30分ほど走ると第二ボスポラス大橋が見えてきた。

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この橋もまた、エルトゥールル号事件と並んで、日本とトルコの友好のシンボルとして
よく名前があがる。
全長1,510メートル、幅39メートルの車両専用(8車線)の吊り橋だ。

1988年、日本の政府開発援助(ODA)により、石川島播磨(IHI)、三菱重工業、日本鋼管、
伊藤忠商事と現地の企業の協力により建設された。
同じ年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋になっている。
日本とトルコの友好の話は、別な回にまとめて書きたいと思っている。

降りたバス停からルメリ・ヒサールに向かって海岸沿いを歩く。
海峡クルーズの船の上から眺めている時も思ったが、
ボスポラス海峡の水はほんとうに美しい。

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【ルメリ・ヒサール】

ついに来た! 見たかったルメーリ・ヒサール。

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1452年に、たった4ヶ月で造られた要塞だ。
ここでは、塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」を読みながらこの要塞を見て行こうと思う。

このあと、このように背景が水色になっている部分は、
「コンスタンティノープルの陥落」の記述をほぼそのまま引用している。

まず最初に、着工の様子から。

(1452年の)春、多量の工夫の徴集令が発せられた。

大臣たちに告げられた理由は、ボスフォロス海峡渡航の安全を期すため、
「アナドール・ヒサーリ」のある地点の対岸に、
もう一つの要塞を築くということだけだった。

 

対岸のアナドール・ヒサーリ。ボスポラス海峡クルーズの時に撮ったもの。

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名目上の建造理由は海峡の安全確保だった。

ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ領土だけに、
ボスフォロス海峡を渡らないことには、東西の往来もできない。
ところが、この海峡に、ここ数年スペイン人の海賊の横行が目立ち、
そこを通るジェノバやヴェネツィアの商船も、
だいぶ頭を痛めている問題だった。

そのためもあって、マホメッド二世の告げた理由も、
コンスタンティノープル攻略の下準備かと疑った
カリル・パシャ以外の者には、納得がいく理由だったのである。

 

大塔の内部

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工期短縮は最初から意図されていた。

「ルメーリ・ヒサーリ」の工事は、集めさせた西欧の要塞の見取図を参考に、
マホメッド自ら考案したとおりに、この種の工事にしては異例の速さで進行した。

全工事をただ一人の責任者にまかせず、三つの大塔とその周辺の城壁を、
高官一人ずつに分担させることも、マホメッドの考えたことだった。

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そしてその方法は奏功する。

工事は、三人の高官にとっては、スルタンの視線を背後に感じながらの競争でもあった。
実際、このやり方の有効さは実証され、
「ルメーリ・ヒサーリ」は、誰もが予想もしなかった短期間で完成したのである。

 

ボスポラス海峡を見下ろす。対岸はアジアだ。
第二ボスポラス大橋もよく見える。

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マホメッド二世は、海峡の最も狭い部分を二つの城というか要塞で挟んでしまった。

マホメッド二世は、これに、ヨーロッパの城という意味で、「ルメーリ・ヒサーリ」と名付けた。
対岸にある要塞が、アジアの城という意味で、
「アナドール・ヒサーリ」と呼ばれていたのにちなんだのである。

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海峡の安全確保が理由だったはずなのに、いざ完成するとあとはオスマン・トルコの思うがまま。

トルコは「ルメーリ・ヒサーリ」と名づけたこのヨーロッパ側の要塞と、
前からあったアジア側の「アナドール・ヒサーリ」の両方に大砲をそなえつけ、
間を通る船を停船命令で止め、通行料という名目で莫大な額の金銭を支払わせているというのである。

停船命令 に従わない船には、両岸の要塞から大砲が火を吹くという。
ボスフォロス海峡の通行税など、そこを領内に持つビザンチン帝国でさえ要求したことがない。

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この要塞ができるまで、船の運行技術に長けたジェノヴァやヴェネツィアの船乗りは、

ボスフォロスの入り口に達するや、すでにコンスタンティノープルの船着場を
眼の前にしたような安堵を覚えた・・・

だが、これからはちがう。

ボスフォロス海峡が最も狭くなる地点、わずか六百メートルしかないその地点を、
両岸からの砲火をかいくぐって行かねばならないのだ。

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そして、ついにコンスタンティノープル在住の西欧商人を震駭させる事件が起こった。

(1452年)十一月二十六日、黒海から来てボスフォロス海峡を南下中の小麦を多量に積んだ
ヴェネツィアの帆船一隻が、「ルメーリ・ヒサーリ」からの砲火を浴びて、
撃沈されたという事故だった。・・・

船長と三十人の乗組員は泳いで岸にたどりついたのだが、
アジア側に泳ぎついた者も、ヨーロッパ側の岸にはいのぼった者もただちに捕らわれた。・・・

ヴェネツィア大使ミノットは、ただちにスルタンの許へ使者をおくり、・・・
抗議したが、無駄だった。

問答無用とだけ答えたスルタンの命で、十二月八日、船長は杭刺しの刑、
三十人の船乗りは全員、胴体を真二つに斬られて殺されたのである。

 

城壁の上は歩けるようになっているが、かなりの急坂。
もちろん手すりも柵もないので、観光客は皆、慎重に歩いている。
落ちたら命にかかわるような高い部分もある。
兵士たちはここを走っていたのだろうか。

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全体として要塞の構造はそれほど複雑ではない。
崩れかけた部分も合わせて一種の荒々しさもある。

安全面から考えるとかなり危険な場所もあるのに、
城壁の上も含めて、大部分が立入禁止にはなっていない。

でこぼこした足のうらの感触とともに、六百年前の鼓動が今にも聞こえてくるようだ。

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ルメーリ・ヒサーリ完成以降、当時の西欧商人が見たものは、

威圧するようにそそり立つ「ルメーリ・ヒサーリ」であり、
そこから悪魔でも飛んでくるかのように迫る砲丸であり、
それをかわすのに懸命に左右に舵をとる船であり、
逃げおおせた時に見えた、海上に浮ぶコンスタンティノープルの遠景だったのである。

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20歳という若いスルタンが率いるトルコ軍は、この要塞を足がかりに、
ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルをいよいよ追い詰めていく。

 

見学途中、意外なものに遭遇し、夫婦でおもわず歓声をあげてしまった。
「おぉ、こんなところにあるじゃないか!」

さて、これは何でしょう?

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正解は、追い詰められたコンスタンティノープルが取った作戦についての話をしてからにしたい。
簡単な地図を書いたので、まずはこの地図をご覧あれ。

Photo

中央の大きな灰色の三角部分がコンスタンティノープル、のちのイスタンブールだ。

底辺の下がマルモラ海、右上に向ってボスポラス海峡が伸びており、
三角形の右斜辺にあたる入江が金角湾だ。

左斜辺部分は金角湾からマルモラ海に至る全長6キロ半にもおよぶ
コンスタンティノープルが誇る堅固な城壁になっている。

さてこの三辺をどう防衛するか。
左側、城壁の攻防については次回以降で書きたいと思う。
なので、ここでは海側の二辺について。

まずは底辺部分。実はここ、マルモラ海からの攻撃は難しい。

三角形の下方の一辺、マルモラ海に面する一辺は、海に面しているというだけでなく、
ボスフォロス海峡からくだってくる激しい潮流と北風を真正面から受けるため、
一千百年を越えるビザンチン帝国の長い歴史でも、一度も敵の攻撃を受けた例はない。

今回もここだけは、一重の城壁に少数の守備兵の配置だけで十分と思われた。

では、金角湾側はどうだろう。

金角湾の一辺は、海に面し城壁も一重という点ではマルモラ海側と同じだが、
こちらのほうは、ボスフォロス海峡から流れこむ潮流からは死角にあたっており、
北風からも、マルモラ海側とは比較にならないほど守られている。

これまでにコンスタンティノープルが征服された唯一の例、一二〇四年の第四次十字軍の時も、
ここからの攻撃の成功が原因だった。

潮流も北風も弱く、攻撃されやすい金角湾側。

追い詰められたビザンチン帝国・コンスタンティノープルは、金角湾からの攻撃を避けるために、
金角湾を封鎖する、という作戦にでる。

金角湾の入り口を塞いでしまい、敵の船が入れないようにしよう、というわけだ。

どうやって湾を塞ぐのか。
なんと、鉄の鎖を湾の入り口に渡して船が入れないようにしたのだ。

引かれていく重い鉄鎖は、海中に沈んでいるので岸からは見えない。
見えるのは、二隻の小舟が進むにしたがって伸びる、木製のいかだの列である。

このいかだは、鉄鎖に結びつけられていて、鉄鎖が両岸の塔に固定された後も、
それを海中深く沈めない役目をもっていた。

船の通過を阻止するのが目的なのだから、巨大な防鎖は、
海面すれすれに張られていなければ用をなさない。

地図に鎖の位置を書き加えるとここ。

Photo_2

そう、先の質問の解答はこの「金角湾を封鎖した鎖」が正解。

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その鎖の一部が簡単な説明書きの横に無造作においてあったのだ。
しかも大塔内部の、目立たない薄暗い一角に。

このあと訪問した軍事博物館では、歴史の遺品として、さらに長い鎖を展示物として
見ることができたが、そちらではもちろん触れることはできなかった。

なので、ここで思う存分、触感と重量感を味わえたのはほんとうにラッキー!
本を読んでいなかったら、見過ごしてしまったかもしれないが。

 

そして湾は完全に封鎖される。

金角湾の封鎖が完成するのである。・・・
数では優に十倍のトルコ海軍に対抗する策として・・・

これだと、敵の侵入も困難になるが、味方にとっても逃げ道が断たれたことになる・・・

1453年、金角湾を封鎖されたトルコ軍はどうしたか。 まさに想像を絶する、思いもよらない作戦にでる。

今日はここまで。

 

帰りのバス停に路線図があったので写真を撮った。

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さすがバス大国の大都会。ものすごい路線網で覆われている。

 

金角湾封鎖に対するトルコ軍の驚くべき奇策。この続きは、
(19) イスタンブール 軍事博物館編で。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年11月 4日 (日)

トルコ旅行記2012 (17) イスタンブール シュレイマニエ・ジャーミィ編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17  (旅行記の目次はこちら


(17) イスタンブール シュレイマニエ・ジャーミィ編


2012年7月14日

【シュレイマニエ・ジャーミィ】
シュレイマニエ・ジャーミィは、海峡クルーズの船から旧市街を見た時、
小高い丘の上に建っているせいかアヤソフィア以上に目立っていた。
下の写真の右上の大きなジャーミィだ。

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オスマン帝国が最も繁栄した時代のスルタン、シュレイマンが造らせたもの。

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完成は1557年。川中島の合戦と桶狭間の戦いの間。
日本では、上杉謙信、武田信玄、織田信長らの名前が並ぶ頃だ。

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グランド・バザールから歩いていける距離にあるが、観光客は驚くほど少ない。
でも、静かな寺院はいいものだ。

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ドームの高さは53m。あのアヤソフィアが56mだからわずかに低いだけ。
造られたのはアヤソフィアの約千年後ではあるが。

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中のカーペットの文様は、ひとりひとりの礼拝の位置を示しているという。
多くの人が整然とならべるわけだ。

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オスマン帝国黄金期の建築ではあるが、内部は華美に走っていない美しい装飾だ。
設計はオスマン建築の巨匠ミマール・スィナン。

500もの建築を残したと言われる大建築家スィナンも、実は異教徒の子弟が集められた精鋭集団、
非トルコ人による軍隊「イエニチェリ」の出身だ。
遠征軍の橋梁の建築に関わったことがきっかけで頭角をあらわしていく。

セリム1世、シュレイマン1世の征戦に従って諸国を巡り、建築技術を実地で習得しながら見聞を広め、
そしてついに1538年、シュレイマン1世により建築家の長に任じられる。
その後、100歳近い高齢で没するまで、建築家長としてセリム2世、ムラト3世と三代にわたり、
宮廷建築家として仕えている。

スィナンの責任で建てられた建造物は、ジャーミィ、神学校、隊商宿、橋梁などまさに多岐にわたり、
合わせて500にものぼる。

モスクの建設において、大ドームを発展させ、細長いミナレット(尖塔)を特色とする
オスマン建築特有の様式を完成させたのもスィナンだ。

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広い中庭も大理石が敷き詰められている。

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シュレイマニエ・ジャーミィのとなりには、イスタンブール大学がある。
大学の門のひとつ。 正門ではない、というかむしろ裏門、でこれ。

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ぶらぶらと歩いて金角湾のほうに向かう。明るいが午後7時過ぎ。裏通りの商店街は閉まっている。

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途中エジプシャン・バザールの近所では、急に賑やかになる。

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そうそう、歩いている途中で、ATMでお金をおろしてみた。
イスタンブール市内、各種銀行のATMコーナをほんとうによく見かける。
「cirrus」マークのあるカードを持っているのでそれを使ってみた。
キャッシングだと利息がついてしまうので、口座からの外貨引出し。

画面が英語に切り替えられないと「キャンセル」ボタンすらわからなくなってしまうので、
通常のトルコ語表示が英語に切り替えられるかどうかだけが心配だったのだが、
カードを入れたらなぜかいきなり英語表示に。
外国のカードが来ると英語になるの? 仕組みはよくわからないが、まぁ操作できればOK。

現金が必要というよりも、銀行のカードが使えるかどうかを確認してみる、という興味から。
手数料は一回につき210円かかるが、換金レート自体はまったく悪くなく、
24時間いつでもおろせるので緊急時のキャッシュ調達用としては充分使えそう。

 

いよいよ日も傾いて街があかく染まる。

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ガラタ橋下のレストラン街の灯りが見える。

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7月14日、一日の分だけを書くのに計6回。

トプカプ宮殿、アヤソフィア、地下宮殿、ブルーモスク、
グランド・バザール、シュレイマニエ・ジャーミィ
以上、これだけ見所満載の見学先を、今日は一日徒歩のみで回ってきたことになる。
バスもトラムも一切使っていない。徒歩圏にこれだけの大物が詰まっている旧市街。
しかも、国立考古学博物館や、トルコ・イスラーム美術博物館など、
時間さえあればこの圏内にもまだまだ見たいものがたくさんある。
ものすごい密度の濃さだ。さてさて、明日はどうなることか。

 

今日はここまで。

 

お別れに、ガラタ橋の近くで釣りをしていた人の写真を。
左側、橋の下側はレストラン街になっているが、橋の上には釣りをしている人がずらりと並んでいる。

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(18) イスタンブール ルメリ・ヒサール編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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