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2012年11月22日 (木)

トルコ旅行記2012 (22) イスタンブール テオドシウスの城壁編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(22) イスタンブール テオドシウスの城壁編


2012年7月15日

(トルコ旅行記を順番に読んで下さっている方に対しては)閑話休題。

軍事博物館でメフテルハーネの演奏をゆっくり聴いていたら、すっかり時間が遅くなってしまった。
このあと郊外まで行って、テオドシウスの城壁とカーリエ博物館を見なければ。

バスで行くとどのくらい時間がかかるのだろう。

バスで城壁までは行けるとしても、カーリエ博物館を見る時間はあるだろうか。
博物館は何時までやっているのだろう。
手元にある2冊のガイドブックを見ると、書いてある閉館時間がぜんぜん違う。

初日に買ったテレホンカードがあるのを思い出した。
さっそく電話して閉館時間を確認。今度は使い方も一発でバッチリだ。
午後6時までやっている、とのことだったので急いで目指すことにした。

「ここから乗ろう」のバスターミナルに着くと、ちょうどバスが動き出した直後。
カッパドキアでの如く、動き出したバスを止めようとすると
運転手の「ダメダメ」のサインのもと、あっさり無視された。
調子づいてはいかん。ここはイスタンブールだ。カッパドキアではない。

次のバスを待って、城壁に向う。
アタチュルク橋を渡って、ヴァレンス水道橋下をくぐって、と路線バスのルートも楽しい。
エディルネカプという、とても一度ではちゃんと読めないような名前のバス停で降りた。

 

【テオドシウスの城壁】

バス停を降りて城壁を探しながら歩きだすと、
道に沿うように遠くまで延びている城壁が見えてきた。

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自動車道に沿うように、というのは実は逆で、
城壁に沿うように自動車道が伸びている。

城壁の「壁」そのものは、この位置からでは見えないが、
自動車道左側に塔が並んで建っている様子がわかるだろうか。
塔と塔とを繋ぐように城壁が残っている。

まず最初に、城壁の全体像と、今どのあたりにいるのかを、
簡単に確認しておきたい。

Photo

この地図の真ん中、灰色の三角形部分が
コンスタンティノープル(のちのイスタンブール)だが、
三角形の左斜辺、太い点線部分がテオドシウスの城壁だ。
今は赤丸の位置に立っていて、付近に残っている城壁を見ている。

テオドシウスの城壁は、
金角湾からマルモラ海にまで約7キロメートルに渡って延びている城壁で、
ビザンチン帝国テオドシウス二世の時代に建造された。完成は413年。
もう一度書く。413年だ。

以後、

616年と626年にペルシア
717-718年にアラブ
813年にブルガリア
864年と904年にロシア
959年にハンガリー
1043年に再びロシア
1391年と1422年にオスマン帝国

と数々の敵国が攻撃を仕掛けてきたが、いずれの場合もこの城壁を打ち破ることには成功していない。

一千年以上に渡ってコンスタンティノープルを守ってきた、まさに難攻不落の城壁は、
いったいどういう構造になっているのだろう。

塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」の挿絵が一番わかりやすかったので、
それを参考に絵を書いてみた。
こんな、三重構造になっている。

 

Photo_2

 

日本・トルコ協会のホームページには、以下のような説明もある。

内城壁は厚さ5m、高さ8-12mで、内城壁と外城壁の間に幅15-20mの通路がある。
外壁は厚さ10m、高さ8.5mで、その外側に高さ2mの胸壁、
外城壁の外には幅20mの濠がつくられた。

96の高さ18m-20mの物見塔は内壁と外壁に交互に55mおきに配置されており、
そのほかに、小さな秘密扉、一般用と軍事用の門が各5で計10の門が設けられた。

 

全体で60メートルを越える「厚さ」の壁だ。
最初の写真で自動車道わきに連なって見えたのは、この物見塔ということになる。

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内城壁に相当するまさに壁の部分はこんな感じだ。

120715164602_img_3952s 120715164629_img_3953s 120715164649_img_3954s

 

千六百年という途方もない時間と幾多の戦争で、すでに崩れている部分も多いが、その厚さ、高さには驚く。

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今回も、塩野七生さんの本を拠り所に往時に思いを馳せてみたい。

このような水色部分は、
塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」からの引用を示している。

 

城壁を目の当たりにした我々も、1452年に城壁見物をしたニコロとまさに同じ反応をしていた。

この内城壁を突破することはほとんど不可能に近いと、
ニコロも讃嘆の声をあげずにはいられなかった。

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ところがこの城壁も1453年、オスマン帝国マホメッド二世の攻撃に遂に破られてしまう。

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ここでは、オスマン軍が使った「ウルバン砲」という大砲についてちょっと紹介しておきたい。

ウルバンの巨砲と呼ばれるこの大砲は、これまでに誰一人として見た者はいないほどの怪物だった。
砲身の長さは八メートル以上もあり、石弾の重さは六百キロを越えるかと思うほどだ。
大砲を乗せて動かす砲台も、三十頭の牛が左右に並んで引っぱらないと動かない。

七百人もの兵が附きそってスルタンの宮殿の前に運ばれてきたこの巨砲は、
撃ち初めも、アドリアーノポリの住民に、怖しい音がしても驚かぬよう布告をだした後で行われた。

第一弾が発射された瞬間の響音は、二十キロ四方にひびきわたり、大石丸は、風を切る
怖しい音を後に残して一キロ半も飛んだ後、大音響をたてて地表から二メートルもめりこんで止まった。

 

マホメッド二世は、この重い大砲をアドリアーノポリからコンスタンティノープルに運ぶため、
道路の整備まで命じている。

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だが、大砲を操作する側も、すべてがうまくいっていたわけではない。
土台のつくりが充分でないのか、砲丸を発射するたびに、大砲は左右にひどくゆれ動く。

土台からころがり落ちるものもあった。

とくに、巨砲は、操作がいっそう困難なためか、注意に注意して操作しても、
一日に七発しか発射することができなかった。

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この大砲を使った攻撃が始まったのは1453年4月。

そして、心臓がちぢんでしまうようなこの轟音が、これから七週間もつづくことになるとも、
誰一人、思ってもみなかったのである。

 

最終的に、このウルバン砲そのもので城壁を打ち破ったわけではないのだが、
こんな化け物みたいな大砲をも採用していたことに、
マホメッド二世のコンスタンティノープル陥落への執念を感じないわけにはいかない。

一方で、この大砲に関する話を読む時、まんがのような滑稽さを感じてしまうのはなぜなのだろう。
重さ六百キロの砲丸を一キロ半も飛ばす。でも一日七発しか撃てない。
命中率も悪かったらしい。
開発者はハンガリー人、ウルバン。なのでウルバン砲。名前でも損をしているのかもしれない。

 

崩れた城壁の向うに見えるのはミフリマー・スルタン・ジャーミィ。
城壁の門の部分の厚さも優に5メートル以上はある。

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そして、陥落五日前。

ビザンチン帝国は、最初の皇帝コンスタンティヌス大帝と同じ名の皇帝の治世に滅亡するという予言を、
あらためて人々は思いだしていた。また、大帝の立像は片手が東方を指していたが、
それは、東方からくる者によって帝国は滅びるという意味なのだ、という者もいた。

昔からの言い伝えの一つに、帝国は月が満ちつつある間は絶対に滅びない、というのがあり、
これまで人々を元気づけていたのだが、二十四日は満月だった。

この後は、月は欠けるしかない。
これが、人々をおびえさせた。

しかも、その満月の夜に、月蝕が起ったのである。
三時間つづいた暗黒の闇は、もともと迷信深いビザンチンの人々にとって、
これ以上の不吉な前兆はないと思えた。

月は、ビザンチン帝国の象徴でもあったのだ。
神が帝国を見捨てられたのだという想いは、彼らの胸に、重くのしかかって動かなくなった。

1453年5月29日

皇帝も、紅の大マントを捨てた。
帝位を示す服の飾りも、はぎ取って捨てた。そして、

「わたしの胸に剣を突き立ててくれる、一人のキリスト教徒もいないのか」

とつぶやいたのを、誰かが耳にしたという。
東ローマ帝国最後の皇帝は、剣を抜き、なだれをうって迫ってくる敵兵のまっただ中に姿を消した。

 

 

今日はここまで。

 

お別れに、新市街のバス停付近でみかけた案内板を。
二千年前の遺跡にも水洗トイレがあったような国の
モダンなトイレって、いったいどんなトイレだ?

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(23) イスタンブール カーリエ博物館編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」の挿絵が一番わかりやすかったので、
それを参考に絵を書いてみた。

↑笑い

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