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2012年11月 7日 (水)

トルコ旅行記2012 (18) イスタンブール ルメリ・ヒサール編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(18) イスタンブール ルメリ・ヒサール編


2012年7月15日

まるまる一日を使える最後の日。
今日は今回の旅行でぜひ行きたかったルメリ・ヒサールを始めとする
「私的・コンスタンティノープルの陥落」ツアーの日だ。

朝、ホテルでカギを預けて出ようとすると、フロントの人が
「ちょうどよかった。この人と一緒に行って、イスタンブールカードを買ってあげて」と言う。
フロントには、20代の日本人男性が一人で立っていた。

昨夜イスタンブールカードのことを聞いたばかりだったので、
フロントの方も覚えていたのだろう。
彼も同じようなことを質問していたに違いない。
まさに我々も今日最初に買いに行こうと思っていたカードなのでもちろん了解した。

イスタンブールカードは、Suicaのようなチャージができるカードで、
これがあると、バスもトラムも地下鉄もワンタッチで乗ることができる。
日本のSuciaと違って一枚で複数人が使ってもOKのうえ、
ジェトンと呼ばれる切符代わりのトークンに比べて、ちょっとだけ料金の割引もある。

今日は、バスや電車をいろいろ乗り継ぐ予定だったため、
「回数券のようなものはないか」と尋ね、
「便利だからぜひ買ったほうがいい」と教えてもらったのだ。
これで、いちいちジェトンを買う面倒から解放される。

 

教えてもらったカード売り場までは、ぶらぶら3人で話しながら歩いて行った。
彼も個人旅行の途中。
会社の夏休みが「7,8月中の4日間、好きなよう取っていい」というものらしく、
海の日があるこの週にして9連休にしたとのこと。
ブルガリアにも寄って帰る予定とか。

イスタンブールカード、「ここで売っているよ」と教えてもらったところまで行ったものの、
そこには販売所がなく、少し探してうろうろしてしまった。

駅からの地下通路を抜けた先、新聞スタンドのようなKIOSKで売っていた。
買う時に、お金を渡して任意の額をその場でチャージしてもらう。
売り場の人は観光客に慣れている感じで、2枚買おうとすると、
「大丈夫、一枚を3人で使えるよ」と丁寧に教えてくれた。事情を話し無事2枚購入。

「迷ったせいで、一枚のカードを買うだけなのに、ずいぶん時間がかかっちゃったね」と言うと
「ぜんぜん気にしてません。
 迷ったり、探したりすること自体を楽しめないと個人旅行をしている意味がありませんから」

若者よ、いいこと言うね。
おじさんは思わずメモってしまったよ。

 

彼と別れた我々は、ルメリ・ヒサールを目指した。
バスの路線はよくわからないが、
カバタシュという新市街海側のターミナルまでトラムで行けば、
あとはおそらくなんとかなるだろう。
海岸沿いの道を走るバスならどれでも行けるような気がしていた。

カバタシュでトラムを降りてみると、そこは小ターミナルという感じになっており、
バス乗り場が並んでいた。

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なにもないのも困るが、数が多いのも困る。
待っている人にどのバスに乗ればいいのかを教えてもらう。
イスタンブールカードをゲットしたので、気分が明るいと言うか身が軽い。
小銭を気にする煩わしさから解放されたからだ。

一昨日、ボスポラス海峡クルーズの船から見たリゾート地・別荘地を繋ぎながら、
海岸沿いのルートをバスは行く。
対岸にアジアが見える海側も、リゾート気分いっぱいの海岸沿いの街側も、
景色はほんとうにいいのだが、バスに冷房はなく窓は開けているもののとにかく暑い。

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30分ほど走ると第二ボスポラス大橋が見えてきた。

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この橋もまた、エルトゥールル号事件と並んで、日本とトルコの友好のシンボルとして
よく名前があがる。
全長1,510メートル、幅39メートルの車両専用(8車線)の吊り橋だ。

1988年、日本の政府開発援助(ODA)により、石川島播磨(IHI)、三菱重工業、日本鋼管、
伊藤忠商事と現地の企業の協力により建設された。
同じ年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋になっている。
日本とトルコの友好の話は、別な回にまとめて書きたいと思っている。

降りたバス停からルメリ・ヒサールに向かって海岸沿いを歩く。
海峡クルーズの船の上から眺めている時も思ったが、
ボスポラス海峡の水はほんとうに美しい。

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【ルメリ・ヒサール】

ついに来た! 見たかったルメーリ・ヒサール。

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1452年に、たった4ヶ月で造られた要塞だ。
ここでは、塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」を読みながらこの要塞を見て行こうと思う。

このあと、このように背景が水色になっている部分は、
「コンスタンティノープルの陥落」の記述をほぼそのまま引用している。

まず最初に、着工の様子から。

(1452年の)春、多量の工夫の徴集令が発せられた。

大臣たちに告げられた理由は、ボスフォロス海峡渡航の安全を期すため、
「アナドール・ヒサーリ」のある地点の対岸に、
もう一つの要塞を築くということだけだった。

 

対岸のアナドール・ヒサーリ。ボスポラス海峡クルーズの時に撮ったもの。

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名目上の建造理由は海峡の安全確保だった。

ヨーロッパとアジアにまたがるトルコ領土だけに、
ボスフォロス海峡を渡らないことには、東西の往来もできない。
ところが、この海峡に、ここ数年スペイン人の海賊の横行が目立ち、
そこを通るジェノバやヴェネツィアの商船も、
だいぶ頭を痛めている問題だった。

そのためもあって、マホメッド二世の告げた理由も、
コンスタンティノープル攻略の下準備かと疑った
カリル・パシャ以外の者には、納得がいく理由だったのである。

 

大塔の内部

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工期短縮は最初から意図されていた。

「ルメーリ・ヒサーリ」の工事は、集めさせた西欧の要塞の見取図を参考に、
マホメッド自ら考案したとおりに、この種の工事にしては異例の速さで進行した。

全工事をただ一人の責任者にまかせず、三つの大塔とその周辺の城壁を、
高官一人ずつに分担させることも、マホメッドの考えたことだった。

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そしてその方法は奏功する。

工事は、三人の高官にとっては、スルタンの視線を背後に感じながらの競争でもあった。
実際、このやり方の有効さは実証され、
「ルメーリ・ヒサーリ」は、誰もが予想もしなかった短期間で完成したのである。

 

ボスポラス海峡を見下ろす。対岸はアジアだ。
第二ボスポラス大橋もよく見える。

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マホメッド二世は、海峡の最も狭い部分を二つの城というか要塞で挟んでしまった。

マホメッド二世は、これに、ヨーロッパの城という意味で、「ルメーリ・ヒサーリ」と名付けた。
対岸にある要塞が、アジアの城という意味で、
「アナドール・ヒサーリ」と呼ばれていたのにちなんだのである。

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海峡の安全確保が理由だったはずなのに、いざ完成するとあとはオスマン・トルコの思うがまま。

トルコは「ルメーリ・ヒサーリ」と名づけたこのヨーロッパ側の要塞と、
前からあったアジア側の「アナドール・ヒサーリ」の両方に大砲をそなえつけ、
間を通る船を停船命令で止め、通行料という名目で莫大な額の金銭を支払わせているというのである。

停船命令 に従わない船には、両岸の要塞から大砲が火を吹くという。
ボスフォロス海峡の通行税など、そこを領内に持つビザンチン帝国でさえ要求したことがない。

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この要塞ができるまで、船の運行技術に長けたジェノヴァやヴェネツィアの船乗りは、

ボスフォロスの入り口に達するや、すでにコンスタンティノープルの船着場を
眼の前にしたような安堵を覚えた・・・

だが、これからはちがう。

ボスフォロス海峡が最も狭くなる地点、わずか六百メートルしかないその地点を、
両岸からの砲火をかいくぐって行かねばならないのだ。

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そして、ついにコンスタンティノープル在住の西欧商人を震駭させる事件が起こった。

(1452年)十一月二十六日、黒海から来てボスフォロス海峡を南下中の小麦を多量に積んだ
ヴェネツィアの帆船一隻が、「ルメーリ・ヒサーリ」からの砲火を浴びて、
撃沈されたという事故だった。・・・

船長と三十人の乗組員は泳いで岸にたどりついたのだが、
アジア側に泳ぎついた者も、ヨーロッパ側の岸にはいのぼった者もただちに捕らわれた。・・・

ヴェネツィア大使ミノットは、ただちにスルタンの許へ使者をおくり、・・・
抗議したが、無駄だった。

問答無用とだけ答えたスルタンの命で、十二月八日、船長は杭刺しの刑、
三十人の船乗りは全員、胴体を真二つに斬られて殺されたのである。

 

城壁の上は歩けるようになっているが、かなりの急坂。
もちろん手すりも柵もないので、観光客は皆、慎重に歩いている。
落ちたら命にかかわるような高い部分もある。
兵士たちはここを走っていたのだろうか。

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全体として要塞の構造はそれほど複雑ではない。
崩れかけた部分も合わせて一種の荒々しさもある。

安全面から考えるとかなり危険な場所もあるのに、
城壁の上も含めて、大部分が立入禁止にはなっていない。

でこぼこした足のうらの感触とともに、六百年前の鼓動が今にも聞こえてくるようだ。

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ルメーリ・ヒサーリ完成以降、当時の西欧商人が見たものは、

威圧するようにそそり立つ「ルメーリ・ヒサーリ」であり、
そこから悪魔でも飛んでくるかのように迫る砲丸であり、
それをかわすのに懸命に左右に舵をとる船であり、
逃げおおせた時に見えた、海上に浮ぶコンスタンティノープルの遠景だったのである。

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20歳という若いスルタンが率いるトルコ軍は、この要塞を足がかりに、
ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルをいよいよ追い詰めていく。

 

見学途中、意外なものに遭遇し、夫婦でおもわず歓声をあげてしまった。
「おぉ、こんなところにあるじゃないか!」

さて、これは何でしょう?

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正解は、追い詰められたコンスタンティノープルが取った作戦についての話をしてからにしたい。
簡単な地図を書いたので、まずはこの地図をご覧あれ。

Photo

中央の大きな灰色の三角部分がコンスタンティノープル、のちのイスタンブールだ。

底辺の下がマルモラ海、右上に向ってボスポラス海峡が伸びており、
三角形の右斜辺にあたる入江が金角湾だ。

左斜辺部分は金角湾からマルモラ海に至る全長6キロ半にもおよぶ
コンスタンティノープルが誇る堅固な城壁になっている。

さてこの三辺をどう防衛するか。
左側、城壁の攻防については次回以降で書きたいと思う。
なので、ここでは海側の二辺について。

まずは底辺部分。実はここ、マルモラ海からの攻撃は難しい。

三角形の下方の一辺、マルモラ海に面する一辺は、海に面しているというだけでなく、
ボスフォロス海峡からくだってくる激しい潮流と北風を真正面から受けるため、
一千百年を越えるビザンチン帝国の長い歴史でも、一度も敵の攻撃を受けた例はない。

今回もここだけは、一重の城壁に少数の守備兵の配置だけで十分と思われた。

では、金角湾側はどうだろう。

金角湾の一辺は、海に面し城壁も一重という点ではマルモラ海側と同じだが、
こちらのほうは、ボスフォロス海峡から流れこむ潮流からは死角にあたっており、
北風からも、マルモラ海側とは比較にならないほど守られている。

これまでにコンスタンティノープルが征服された唯一の例、一二〇四年の第四次十字軍の時も、
ここからの攻撃の成功が原因だった。

潮流も北風も弱く、攻撃されやすい金角湾側。

追い詰められたビザンチン帝国・コンスタンティノープルは、金角湾からの攻撃を避けるために、
金角湾を封鎖する、という作戦にでる。

金角湾の入り口を塞いでしまい、敵の船が入れないようにしよう、というわけだ。

どうやって湾を塞ぐのか。
なんと、鉄の鎖を湾の入り口に渡して船が入れないようにしたのだ。

引かれていく重い鉄鎖は、海中に沈んでいるので岸からは見えない。
見えるのは、二隻の小舟が進むにしたがって伸びる、木製のいかだの列である。

このいかだは、鉄鎖に結びつけられていて、鉄鎖が両岸の塔に固定された後も、
それを海中深く沈めない役目をもっていた。

船の通過を阻止するのが目的なのだから、巨大な防鎖は、
海面すれすれに張られていなければ用をなさない。

地図に鎖の位置を書き加えるとここ。

Photo_2

そう、先の質問の解答はこの「金角湾を封鎖した鎖」が正解。

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その鎖の一部が簡単な説明書きの横に無造作においてあったのだ。
しかも大塔内部の、目立たない薄暗い一角に。

このあと訪問した軍事博物館では、歴史の遺品として、さらに長い鎖を展示物として
見ることができたが、そちらではもちろん触れることはできなかった。

なので、ここで思う存分、触感と重量感を味わえたのはほんとうにラッキー!
本を読んでいなかったら、見過ごしてしまったかもしれないが。

 

そして湾は完全に封鎖される。

金角湾の封鎖が完成するのである。・・・
数では優に十倍のトルコ海軍に対抗する策として・・・

これだと、敵の侵入も困難になるが、味方にとっても逃げ道が断たれたことになる・・・

1453年、金角湾を封鎖されたトルコ軍はどうしたか。 まさに想像を絶する、思いもよらない作戦にでる。

今日はここまで。

 

帰りのバス停に路線図があったので写真を撮った。

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さすがバス大国の大都会。ものすごい路線網で覆われている。

 

金角湾封鎖に対するトルコ軍の驚くべき奇策。この続きは、
(19) イスタンブール 軍事博物館編で。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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