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2012年10月

2012年10月31日 (水)

トルコ旅行記2012 (16) イスタンブール グランド・バザール編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17  (旅行記の目次はこちら


(16) イスタンブール グランド・バザール編


2012年7月14日

ブルーモスクからグランド・バザールまでも歩いて行くことにした。
途中、確認のために道を聞くと、「息子がいま東京に住んでいる」というおじいさんで、
丁寧に分かれ道の角まで一緒に来てくれた。とにかく親切な人が多い。

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【グランド・バザール(カパル・チャルシュ)】

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十数箇所ある入り口のひとつ。上に小さく1461年とある。 応仁の乱の6年前。
トプカプ宮殿の着工もおなじころだ。

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1453年にコンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世は、
商人たちに安全かつ秩序ある商いの場を与えようと、市場の建設を命じた。

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その後、スレイマン大帝が拡張。 今の大きさとなったのは18世紀初めごろ。

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トルコ語の「カパル・チャルシュ」とは、屋根付きの市場という意味。
五百年前のアーケード付きショッピングモールだ。

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東西交易によって得られた富がイスタンブールの繁栄を支えてきたが、
その象徴とも言える賑やかさがここにはある。

店舗は現在、全部で4400もあるらしいが、とにかく大きく、通路が迷路のようになっている。
市場としては中東最大と言われている。
かつては、トルコ中のあらゆる産物を扱っていたが、今は基本的に土産物屋ばかりだ。

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グランド・バザールでは日本への土産を買った。
ストールというかマフラーの大きなもの。
カシミアであったりシルクであったり、素材もいろいろだが、柄も生地もほんとに豊富で、
選択肢の多さには圧倒されてしまう。

 

いくつかのお店を覗いてお薦めを見せてもらったあと、ここにしよう、の店を決めた。
日本に残っているふたりの娘の分も含めて、何枚か買うことにしていたのだが、
選択肢が多い分、品選びにはかなり時間が...

店のお兄さんは、「送る相手は何歳か」、「こんな柄はどうか」、「こんな巻き方はどうか」、と
次から次へといろいろな商品、巻き方を紹介しながら、
畳んであった時には気付かなかったような、商品の柄や色を上手にアピールしてくる。

土産用と言っているのに、こちらの反応を見ながら
「これは、奥様御自身用にいかがでしょう」と全くスキがない。

押し付けがましかったり、「早く決めろ」の空気があったりしたら、
きっと途中で逃げてしまったと思うのだが、
紹介だけしたら、あとは並べてじっくりとこちらの判断を待つ、という感じだったので、
急かされることもなく、商品選び自体はマイペースでできたほうだと思う。

とはいえ、妻があれこれ悩む間、私自身は時間がかかっていることに
相当うんざりした顔をしていたのであろう。

お兄さんは、
「He hates taking time.(時間がかかっているのがほんとにィヤなンだね)」
と言いながら、
「まぁ、座って待ってて」と椅子を用意してくれたりもした。

とにかく、商売とはいえセールスはたいへんだ。
多くの候補の中から、ようやく買うものが決まった。
結果として商品自体の質にも、そして、交渉結果の価格にも満足できる買い物となった。

もちろん「奥様御自身用」も含めてのお買い上げである。

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ところで、コンスタンティノープルを征服したメフメット二世は、
このグランド・バザールの基礎を築いただけでなく、征服後の都市の復興・再建にも力を注いでいる。

ローマ時代から使われている水道を補修し、学校や病院を設立。
ギリシャ正教の聖堂アヤソフィアをモスクに転用するだけでなく、新しいモスクの建設にも着手。
ハードウェア面だけでなく、トプカプ宮殿の回にも書いた通り「教育システム」の整備も進めている。

一方で、ムスリム富裕層を強制移住させたり、異教徒にも一定の人権を与えて新都に住むことを許したりと、
人口の増加にも手を尽くしているのだ。

武力で陥落させたあと、復興と人の流入を具体的な施策で推進していくスルタン、メフメット二世。
そのころ、彼はいったい何歳だったのだろうか。

一千年以上にも渡って難攻不落を誇っていたビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを
十二万人とも言われたトルコ軍を率いて落としたスルタン。

ハードウェア・ソフトウェアの両面に渡って計画的にインフラ整備を進め、
富の集まる街づくり、国づくりを新都イスタンブールを中心に積極的に推進していったスルタン。

そのスルタン、メフメット二世は、1432年生まれだ。
つまり、コンスタンティノープルを制したときはまだ21歳。

首都をエディルネからここコンスタンティノープル(のちのイスタンブール)に移しての国づくりを
スピード感をもって実行していたのは、若い若い支配者だったのだ。

そのメフメット二世について、Wikipediaにはたいへん興味深い記述がある。
今日はお別れにそれを添えておく。

オスマン帝国の歴代皇帝は、皇帝の地位から失脚した場合にも生計を立てられるよう、
手に職をつける風習があったが、彼の専門は「庭師」であったといわれている。
庭園の手入れを趣味の1つとしており、
遠征先では庭園に植えるバラ、ユリ、チューリップなどの植物を採取し、それを持ち帰った。
     Wikipedia

「庭師」にも驚くが、それ以上に前半、「失脚した場合にも生計を立てられるように手に職を」って
そのまま信じていいのだろうか。 しかもそれが「風習」? 
ほんとうにどういう国なんだ、オスマン帝国。

 

(17) イスタンブール シュレイマニエ・ジャーミィ編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月28日 (日)

トルコ旅行記2012 (15) イスタンブール 地下宮殿とブルーモスク編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(15) イスタンブール 地下宮殿とブルーモスク編


2012年7月14日

昼食は、アヤソフィアの近くのロカンタで。

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味は美味しくて申し分なかったが、観光地のど真ん中のせいか、まさに観光地価格だった。

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地下宮殿に行く前に、ちいさなこれを紹介。

 

【ミリオン】

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左側の写真中央の高い部分ではなく、中央左下の小さな石。
ビザンチン帝国の0キロポスト。

4分割統治状態だったローマ帝国を統一した皇帝コンスタンティヌス1世は紀元330年、
ローマ帝国の都をここに移した。
この地が、皇帝の名にちなんでコンスタンティノポリスと命名されると、
まさに「すべての道」の距離の基準をここに作った。
それがこのミリオンだ。この地点を基準に帝国各地への距離が計測された。

観光客でも気にしている人はほんとに少ないが、見逃すわけにはいかないだろう。
(見たからと言って石柱自体になにがあるわけでもないけれど。)

 

【地下宮殿】
その名の通り、地下に降りていくと、こんな感じで見え始める。

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失われてしまった柱もあるようだが、元は336本もの柱があった。高さ約9m。

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ここは地下宮殿と呼ばれているが宮殿ではない。地下の大貯水池だ。
もともとは単なる都市の「みずがめ」。
今は観光客が入れるようになっているが、もちろん使われているころは水の底だ。
水の中に、この壮大さ、美しさ。 しかも千五百年前。

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4世紀から6世紀にかけて作られたものだという。
貯水池の水は20kmも離れた郊外の森から、土管や水道橋を流れてここにやってきた。
ヴァレンス水道橋という4世紀に作らた水道橋が旧市街には残っているが、
その水道橋こそここへの水道だ。

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トプカプ宮殿の水ももちろんここから供給されていた。
スルタンの喉を潤していたわけだ。

コリント様式が主とはいえ、柱にはいろいろな種類の石が使われている。
帝国領各地の古い神殿から運ばれ流用されたためらしい。
4世紀から見ての「古い神殿から」だ。

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1984年の大改修時、2mにもおよぶ底の泥を取り除いたところ、
巨大なメドゥーサの頭部がふたつ見つかった。

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どこから運ばれてきたものかもわかっていない。
その意味も、「魔除け」という説と「単に土台の石として使っただけ」という説があり、不明。
いずれにせよ、誰の目にも触れない水中に千五百年以上も眠っていたことになる。

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なお、こういった地下貯水池は、市内各所に残っているらしい。
一部は改修されてホールとして使われていたりもする。

 

地下宮殿を出ると、観光客相手の屋台、出店が並んでいた。

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【スルタンアフメット・ジャーミィ:通称ブルーモスク】

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入り口にはイスラム教の説明パンフレットが用意してある。
英語、日本語、フランス語、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、イタリア語、中国語の8言語が揃っている。

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入り口では全員靴を脱ぐように言われるが、
同時に、肌の露出が多い女性には大きなスカーフを貸し出していた。

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中は、まさにブルーを基調としたタイルが美しく息をのむ。

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1616年の完成。徳川家康の没した年、江戸時代が始まったころだ。

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中央ドームは高さ42m。中は2万枚におよぶイズニックタイルで飾られている。
モスクには、全部で260にものぼる小窓があるため、思ったよりも内部が明るく、
ステンドグラスの色と合わせてタイルの色が映えている。

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美しい独特な空間ではあるが、全員が素足になっているせいか、臭い。そう、くさい。
真夏の一番暑い盛りだったのでよけいそうだったのかもしれない。

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少し引いて見ないと柱かどうかもわからないほど太い。

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モスクの尖塔、ミナレットが6本もあるモスクは世界でも珍しいとのこと。
6本が入った写真は夜、撮ったものにあったのでそれを添えておく。

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そうそう、モスクに入る前には、こうして足を清める場所もある。
そうしているのは信者さんだけ、という感じではあったが。

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今日はここまで。

 

お別れに、トプカプ宮殿のそばで出逢った猫を。

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(16) イスタンブール グランド・バザール編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月24日 (水)

トルコ旅行記2012 (14) イスタンブール アヤソフィア編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(14) イスタンブール アヤソフィア編


2012年7月14日

 

トプカプ宮殿の次は、すぐとなりのアヤソフィアに。

【アヤソフィア博物館】

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さすがに観光客が多く、チケットを買う行列も長い。

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大きい! 高さ50mを超える石の巨大建築は、なんと537年のもの。
日本では仏教が伝わってきたころ、聖徳太子が生まれる前だ。

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はやる気持ちを抑えてゆっくり進む。
身廊に入る。おもわず見上げて声がでてしまう。

 

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内部は、天井の高さ56m。
ちなみに東京ドームの高さも56m。
(グラウンドはちょっと掘った位置にあるため、グラウンドから天井までの高さは61mあるが)
横浜ベイブリッジの橋桁の高さが水面から55m。

大きな重い重い屋根を支えなければならないのに、
円屋根の下を始め、これだけ多くの窓が作られているのにも驚く。

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この高さと広さを持つ巨大な石の空間を1500年前に作り出している。
高さという点では、もちろんローマ、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂のほうがずっと大きいが、
サン・ピエトロ大聖堂が作られたのはアヤソフィアの約千年後だ。

6世紀に作られたアヤソフィアは、ビザンチン建築の最高傑作とも言われ、
その後900年もの間、ギリシャ正教の総本山として多くの人々を集め続けることになる。

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ビザンチン帝国の首都として繁栄を誇ったここコンスタンティノープルではあったが、
1453年についに陥落。
勝利をおさめた時のスルタン、メフメット2世は、総主教館を破壊。
ところが、この大聖堂はそのまま残して、なんとモスクに転用することを宣言したのだ。
しかも、内部の改修を最小限を留めて。

具体的に転用とはどのようにしたのか。

まず、内部の十字架が取り外された。
続いて、メッカの方向を示すくぼみであるミフラーブ(写真中央のくぼんだところ)が加えられ、

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ミンバルと呼ばれる説教壇が取り付けられ、
預言者の名がアラビア文字で書かれた円盤が掲げられ、

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そして、外には4本のミナレット(尖塔)が建設された。

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キリスト教のモザイク画はどうなったか。
例えば、正面上、半ドームには聖母子のモザイク画が見える。
モザイク画の話は二階に上がってから続けよう。

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アヤソフィアの建造には、領内各地から石材が集められた。
赤い斑のある柱は、レバノン、バールベックのアポロン神殿から、
緑色の柱は、エフェソスのアルテミス神殿から運ばれた。
石に着目すると、様々な種類のものが混在して使われていることがよくわかる。

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二階に上がってみる。階段ではなく、石の回廊を上る。

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二階からはこのように見える。

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モザイク画の話に戻ろう。

そもそもイスラム教では、偶像崇拝を禁止している。
破壊されても不思議ではない状況だったにもかかわらず、幸いにもモザイク画は破壊を免れる。
壊さずに上から漆喰で塗り固める、という方法がとられたからだ。

そのモザイク画が、1931年、アメリカ人の調査隊により再発見される。
漆喰の剥がされたモザイク画は500年近い眠りから覚め、
まさに、ビザンツ時代の作品として再び人々の目に触れることになったのだ。

 

【デイシス】

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1260年頃。一見絵画と見紛うほど見事なグラディエーションが表現されているが、よく見ると完全なモザイクだ。

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【聖母子と12世紀の皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻のモザイク画】 1122年から1134年頃

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【キリストと皇帝コンスタンティノス9世・ゾエ夫妻】 1042年から1055年頃

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3回も結婚した女帝ゾエは、夫を替えるたびにこのモザイク画の皇帝の顔もつくり替えさせていたという。
右側、自分自身の顔もどう考えても若すぎる。
3回の結婚と若すぎる顔に真ん中にいるキリストも呆れているような顔をしている、と
マンガチックな解説をよくみかける。

 

二階に上がると柱上部の装飾もよくわかる。

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出口近く、前方上部に大きな鏡が据え付けられていた。そこにモザイク画が写っている。

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振り返ると通ってきた扉の上部に、ほぼ完璧に残っているこんな美しいモザイク画が。

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鏡があるので、気付かずに出てしまうことを避けられる。
背後にあるモザイクを見逃さないような、親切な配慮だ。

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この建物が、キリスト教とイスラム教が混在したちょっと異様な姿になっているのは、
「聖堂からモスクに転用された」その特異な歴史が理由というわけだ。

1923年トルコ共和国が成立したのち1935年からは、聖堂でもモスクでもなく、
博物館として一般公開されている。

 

中を見たあと、外に出て改めて外観を見る。

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ガンダムの**と言いたいところだが、なぜか鉄人28号を思い出してしまう。

 

今日はここアヤソフィアだけ。

 

お別れに、塩野七生さんの本から、コンスタンティノープルが陥落する最後の日、
言い伝えを信じて、ここ聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)に人々が集まってきたシーンを添えておきたい。

だが、逃走してくる味方の兵たちを見、それを追って迫るトルコ兵を見たとき、
絶望した人々の中で、金角湾に向かって逃げた者は少なかった。
ギリシア人たちは、市の東の端し近くにある、
聖ソフィア大聖堂に向って逃げはじめたのだ。

昔からの言い伝えでは、コンスタンティノープルが陥ち、
敵が聖ソフィア大聖堂まで迫ってきても、
その時大聖堂の円屋根の上に大天使ミカエルが降臨し、
敵をボスポラス海峡の東に追い払ってくれる、
と言われてきたからであった。

広大な聖ソフィアの内部も、逃げこんできた人々でいっぱいになった。
彼らは、青銅の大扉を内側から閉め、そこにひざまずいて祈りはじめた。

     塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」

 

大天使ミカエルは現れなかった。
ビザンチン帝国の首都として千百年もの歴史をもつここコンスタンティノープルは、
1453年5月29日、トルコ軍の猛攻によりついに陥落。
トルコ軍が建物自体を破壊しなかった歴史に感謝したい。

 

(15) イスタンブール 地下宮殿とブルーモスク編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月21日 (日)

トルコ旅行記2012 (13) イスタンブール トプカプ宮殿 後編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(13) イスタンブール トプカプ宮殿 後編


2012年7月14日

ハレムを出て、トプカプ宮殿のほかを見て回る。

【謁見の間】

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天蓋のある大きな大きなソファといった感じ。部屋は天井も美しい。

 

【宝物殿】

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入り口近くの柱にはいろいろな種類の石が使われている。

中は衣装から始まり各種宝物が並ぶが、とにかく各国からの貢物がすごい。
最初は驚きながら見て回るが、あまりの高価なものの連続に途中から感覚が麻痺。
一言で言えば、それだけのものを貢がれる「力のある」国だった、ということなのだろう。
内部は写真撮影ができない。

86カラットのダイヤモンドを49個のダイヤモンドで取り囲み涙型にまとめた
「スプーン屋のダイヤモンド」は、ダイヤの原石を拾った漁師が、
市場で3本のスプーンと交換したことからそう呼ばれているらしい。

8万枚の金貨を溶かして作った重さ250kgの玉座、
3つの大きなエメラルドが埋め込まれたトプカプの短剣、
重さ3kgを超えるという世界最大のエメラルドなど、ここだけでも丁寧には見切れない。

 

宝物殿を出ると海が広がっている。アジア側がよく見える。

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【メジディエ・キョシュキュ】

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大理石のテラス。
ここからのボスポラス海峡の眺めは素晴らしい。海の向こう、右側がアジア側。

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コンテナ船がゆっくり進んでいる。
見ると長女Hが勤める会社のコンテナが多く積まれている。

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思わず写真を取り、夜、ホテルのWiFi経由で長女に送る。

 

第四庭に向かっている玉座。

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【ソファ・キョシュキュ】

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キョシュキュとは「あずまや」の意味らしい。第四庭の中央、明るい位置にある。

 

【バグダット・キョシュキュ】

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ムラト4世のバグダット攻略(1638年)を記念して作られた優美な建物。タイル装飾が素晴らしい。

 

【イフタリエ】

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金色屋根部分。
ラマザン月に一日の断食を終えて、夕刻の食事をする所らしいが、とにかく景色がいい。
金角湾がよく見える。

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【皇子の割礼室】

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ここのタイルも必見。

 

別館には、預言者ムハンマド縁の品々を始め、イスラム教預言者の遺品関連の展示もある。
ここも写真は禁止されていたが、イスラム圏からの旅行者は、
86カラットのダイヤよりもずっとずっと熱心に、
まさに食い入るように見入っていた。

とにかくこの預言者関連の展示物は、どれもものすごい人の群れで、しかもその流れが極端に遅い。
入場者の熱心度、集中度みたいなものが数値化できたなら、ハレムよりも、宝物館よりも、
預言者の遺品のほうが上に来ることは間違いないだろう。
写真は禁止されていたが、皆の視線で展示物が痛むのではないか、と心配になるほどの熱気だった。

 

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【アフメット三世の図書館】

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内部も見られるが、本は一冊もない。

 

【スルタンの調理場前】

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残念ながらスルタンの調理場は公開されておらず、陶磁器も見ることができなかった。

 

【議事堂】

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ハレムのタイル、宝物殿の数々の宝物、宮殿全体のタイル、宮殿からの景色、などなど見るところは多いが、
宮殿の建物自体はそれほど魅力的ではない。
それはそれでひとつの特徴とも言える気がする。

 

オスマン朝は、強大な帝国ではあったが、広大な領地の統治を維持するために、
異教徒への寛大さ、教育システム、支配層への重用などにも、大きな特徴があった。

いたるところに機関や機会を設けて教育をほどこし、有能であれば出自にかかわらず高い地位に重用し、
トルコ人にこだわることなく支配層を充実させていったのだ。

マドラサと呼ばれるイスラム法学の高等教育機関を活かし、学者を育成したのもそのひとつ。
有能なものには、民族に関係なく、行政、司法、教育を担当する官僚として活躍する機会を与えていた。
それは、奴隷であっても同じであったというのだから驚く。
イエニチェリと呼ばれる直属軍の出身者であっても、有能であれば高い地位につくことができた。

トプカプ宮殿を出る前に、もう一度塩野七生「イタリア遺聞」に登場してもらい、
その、スルタンが持っていた直属軍イエニチェリについて触れておきたい。

トルコ帝国は、その名とは反対に、非トルコ人に支配される国家であった。
五年ごとにトルコ領内のキリスト教国(ギリシャ、ボスニア、アルバニアなど)から、
少年たちを強制的に供出させた。

その中から姿形も美しく頭も良い四十人ほどが、将来の支配者となる教育を、
トプカピ宮殿で受けるのである。
残りの少年たちは、軍団で育てられる。

トルコ軍の精鋭イエニチェリ軍団を形成していたのは、成人したこれらの少年たちであった。
いずれも改宗するとはいえ、もともとはキリスト教徒の生れである。

だが、妻帯も飲酒も賭事も禁じられ、親許から完全に引き離された状態で成人する
これらのもとキリスト教徒の奴隷たちは、忠誠を誓う対象としては、スルタンしかないという教育の結果、
純血トルコ人よりも、専制君主からすれば信頼の置ける臣下になるのだった。

       塩野七生「イタリア遺聞」

非トルコ人奴隷女性を母とする君主が、非トルコ人の最強軍団を率いて大帝国になっていったトルコ帝国。
歴史はほんとうに不思議でおもしろい。

 

お別れに、の猫復活。宮殿で出逢ったお行儀のいい白い猫を。

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(14) イスタンブール アヤソフィア編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月17日 (水)

トルコ旅行記2012 (12) イスタンブール トプカプ宮殿 前編 ハレム

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(12) イスタンブール トプカプ宮殿 前編 ハレム


2012年7月14日

ホテルの朝食のバッフェは、
「トルコ人のお母さん」という感じの方がひとりで調理しながら対応してくれている。
品数が多いわけではないが、十分すぎる量で味も実に美味しい。

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さて、今日はトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクなどなど
イスタンブール観光のまさにゴールデンルートを巡る予定。

混む前に、ということで最初にトプカプ宮殿を目指す。ホテルからは歩いて5分程度。
石畳の坂を登ってゆく。

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【トプカプ宮殿】
トプカプ宮殿は1467年にメフメット2世により造られ、
1856年にアブドゥネ・メジットがドルマバフチェ宮殿に移るまでの約370年間、
歴代スルタンの住居として使用されていた。

応仁の乱のころに造られ江戸幕末まで使われた、という感じだ。

ボスポラス海峡を警備するために、丘の上に大砲を据え付けていたので、
トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)と呼ばれるようになったらしい。

ウィーン付近から黒海、アラビア半島、果ては北アフリカまでを支配したオスマン朝の中心地だ。

 

【アフメット3世の泉】 皇帝門の前、1728年建造

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【総門(皇帝門)】

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【聖エレーネ(聖なる平和の意、トルコ語でアヤ・イリニ教会)】

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アヤソフィアが建てられる以前の総主教座。

 

【中門(儀礼の門)】

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ほぼ開館と同時に入場。説明を日本語で聞きたかったため、オーディオガイドも借りた。
今は録音テープではないため、トラック指定のための番号を押すだけで、
簡単に好きな場所の説明をランダムに聞くことができる。
もちろん二度聞きも簡単。便利になったものだ。
って言うか、録音テープっていったいいつの話だ?

入場後、まっすぐにその先のハレムを目指す。
別料金にはなっているが、トプカプ宮殿に行ったら必見だ。

 

【ハレム】

美しいタイルに囲まれたハレムの見学はこんな部屋から始まっていく。

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スルタンは馬車のまま入るらしく、馬車の通り道は小石が敷き詰めてある。

以降、タイルの写真は、主に部屋の壁面を撮ったものだ。

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各柄のデザインが分かるように近くに寄った写真を前半に、
部屋の雰囲気がわかるように引いて撮った写真を後半に並べて、
しばしハレムの装飾を楽しんでみたい。

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ご覧の通り、ハレム内はタイルがたいへん美しく、まさにそれが観光の目玉なのだが、
そもそものここの主役はもちろんタイルではない。
そこにいた女性たち(オダリスク)、宦官、それにスルタンだ。

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のちに、ハレムのイメージとしてよく知られるようになる美女があふれた官能的な世界は、
19世紀頃のオリエンタリズム絵画の影響で、特にヨーロッパにおいて、
イメージだけがひとり歩きして膨らんでしまった結果らしい。

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そこで、今日の旅行記は、すこし趣向を変え、
塩野七生「イタリア遺聞」にあるハレムの記述をメインにして、
ひとり歩きして膨らむ「前」のハレムの姿を共有しながらハレムの往時に思いを馳せたい。

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さて、いくつかキーワードを選びながら「イタリア遺聞」を読んでいこうと思う。

このあと、このように背景が水色になっている部分は、本の記述をほぼそのまま引用している。

前後を含め、正確な記述を知りたい方は、ぜひ原文のほうを参照あれ。
ブログの右側にはアマゾンへのリンクも提示しているが、
新潮文庫で流通しているため、どこからでも簡単に手に入る。

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貝を使った装飾が施されている扉が数多くある。

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一部屋にだけ人形が置いてあったが、置いてあるだけで何も伝わってこない。

 

まず最初に、宦官について触れておこう。

【宦官】

黒人の男奴隷は、二十人ほどいた。
だが、主にアフリカから連れて来られたこれらの黒人奴隷は、
トルコ直轄領内での去勢は禁じられていたために、すでにアフリカで去勢手術を受けていて、
しかも、定期的に、去勢が完全であるかを調べる診断も受けなければならない「男」たちであった。

この黒人奴隷たちを統率するのは、「女たちの頭」(キズラル・アガ)と呼ばれる、
これも去勢された黒人の奴隷で、彼が、ハレムの執事であったと言ってもよい。

ハレム内のあらゆることとすべての人間が、この黒人去勢奴隷の管轄下にあったからだ。

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そういった宦官に管理されているここの主役、女性たちはどんな人たちだったのだろう。

【三百人の女たち】

スルタンと二十人ほどの黒人の「宦官」以外は入れなかったハレムの主な住民は、
これも奴隷の身分では変りはない女たちである。
十五世紀後半のマホメッド二世の時代も、十六世紀半ばのスレイマン大帝の時代も、
彼女たちの数はだいたい三百人であったと言われる。

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そのほとんどが、アルバニア、ギリシア、グルジア、コーカサス地方も出身者で、
スルタンのハレムにたどり着いた経路は、次の三つに大別される。

  * 領主からスルタンに献上された。
  * 海賊にさらわれてその頭がスルタンに献上した。
  * 首都コンスタンティノープルの奴隷市場で買われた。

一人の例外もなく処女でなければならなかった。

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女たちの位置は、生まれとは無関係に決められており、
領主の娘も、皇帝の息女さえもいたが、皇女であろうとアルバニアの百姓の娘であろうと、
ハレムに入れば立場は同じになった。

彼女たちは例外なくキリスト教徒の生まれだった。
トルコ女の奴隷は、禁じられていたから。

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【ハレムの女たちの位置】

(a) 最下層
まだスルタンの眼にとまらず床を共にしたことのない女たち。
彼女たちは、十人ずつに分けられて一室に同居させられ、狭い部屋の床にじかに寝る。
前身が王女であろうと、この待遇は変わらなかった。

(b) 最下層(a)の上
スルタンの眼にとまり、床を共にしたことはあったが、子を与えられなかった女たち。
最初の交渉で子を与えられなかった女は、それ以後は二度と床を共にはできない決まりになっていた。
十人一組ではなかったにしろ、この段階では、まだ同居組に入る。

(c)  (b)の上
男女を問わず、子を与えることのできた女たち。
彼女たちになると、はじめて専用の個室を持つことができた。
  この階級も二分されていて、

(c-1) 正妻
長男を与えた女からはじまって四人までが、
女性冠詞のついたスルタンと呼ばれる正妻たちで、
彼女たちになってはじめて、幾人かの専用の召使つきのアパルトマンに住むことが許されていた。

(c-2) 正妻以外
『正妻』以外の女たちは、妊娠しても、堕胎を強制されることさえある。

正妻たちの立場も、皇太子の母以外は安定してなく、寵妃と入れ換えられることも珍しくはなかった。

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【ハレムでの最高の地位】

スルタンの生母が占めていた。
女は望むだけ持てるスルタンも、母は一人しか持てなかった事実からして、
当然の帰結であっただろう。

イスラム教の教祖マホメッドも、天国はお前の母の足許にある、と言ったくらいだから、
奴隷の身分には変わりなくても、生母となれば別だった。

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個室を持てるようになった女性たちの建屋や皇子の部屋は、庇の下も凝っている。

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ハレムから見えるガラタ塔。奴隷の身である彼女らはどんな思いで外の景色を眺めていたことだろう。

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いよいよハレムも終盤だ。見てきた通りタイルの文様の種類は多いが、幾何学模様はめずらしい。

 

ここハレムに集められた女たちには、様々な教育の機会が与えられていた。

Wikipediaには、
「黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、
礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで
様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された」
ともある。

この「教育」こそが、オスマン朝を語るうえで頻繁に登場する重要なキーワードだ。

後編では、イェニチェリと呼ばれるスルタンの直属軍についても触れたいと思う。
ここでも「教育」が大きな意味を持っている。

 

今日はここ、ハレムだけ。

 

お別れに、ひとつおまけ。

多くの美女を独占したハレムは、ある種、男の楽園、天国のように
官能的な幻想とともに語られることが多いが、小鷹信光さんは、
井原西鶴の好色一代男に登場する女だけの島「女護島」を見出し語として選んで、
こんな解説を書いていた。

【ニョゴガシマ】
女護島。「ニョゴノシマ」ともいう。西鶴の好色一代男・世之介が最後に行ったところ。
<all women's island>では風情がないが、ここは天国というよりむしろ地獄だろう。

   小鷹信光「和英ポルノ用語辞典」

 

(13) イスタンブール トプカプ宮殿 後編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月14日 (日)

トルコ旅行記2012 (11) イスタンブール 新市街編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(11) イスタンブール 新市街編


2012年7月13日

海峡クルーズを終え、着いたところはガラタ橋のたもと。
さて、ガラタ橋のたもとと言えば「サバサンド」、さっそく試してみることにした。

なぜか岸に横付けされたよく揺れる小舟の上でサバを焼いている。

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焼いた鯖をレタス、玉ねぎと一緒に「エクメッキ」と呼ばれるパンに挟んだだけ、という
実にシンプルなもの。注文するとその場で作ってパッと手渡してくれる。

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外の椅子に掛け、テーブルの上にあるレモン汁と塩を適当にかけて食べる。

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背骨もそのまま入っていたりするので要注意。
受け取るとまずはパンを開き、手で骨を取ってから食べ始めている人もいる。

屋外とは言え、あたりはまさに鯖を焼く匂いに包まれている。
ここの鯖は実はノルウェー産という話もあるが、味のほうはうまい。
食べる前は、「サバとパン?」と相性を考えてしまうが、食べてみると全く違和感がない。
元は観光客向けのものなのかもしれないが、食べているのも外国人観光客だけ、というわけでもなさそう。

サバサンドを頬張っている客の間を、コップに入った赤い液体を売り歩いている人がいる。

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「あれはなに?」

[Tursu]と書かれた屋台から配達している。飲み物?

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試しに買ってみる。

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中には、キャベツ、きゅうりなどが漬物として入っており、
一緒についているちょっと長めのスティックで、つついて食べる。
赤い液体は、ピクルスを漬けているまさに漬物水なので、かなりすっぱい。
ところが、多くの人達は実の部分はもちろん、その漬物水も飲み干している。

ものすごい暑さの中、サバサンドを食べながらの、このすっぱいピクルスが実においしい。
サバサンドとトゥルシュを汗をかきかき楽しんだあと、
ガラタ橋を渡って新市街の方に行ってみることにした。

 

ガラタ橋を渡った直後、こんな道具通りがあった。

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旧市街と違って高いビルも多く、街の雰囲気がずいぶん違う。
まずはガラタ塔を目指す。

遠くから見ると目立っている塔だか、近くまで寄ると塔自体はビルに隠れるようになり、探しにくい。
カッパドキアでのウチヒサルと同じような感じ。
強烈な暑さゆえ、たいした坂道でもないのに、かなりゆっくりとした足取りになってしまう。

ガラタ塔、塔の高さは67mしかないが、丘の上に立っているため、
新市街の中でもひときわ高く、目立っている。

塩野七生さんは

観光客というものは、なにか高いところがあるとすぐ登りたがるもので、

             塩野七生 「イタリア遺聞」

と書いていたが、まさにその通り、躊躇なく登ってみることにした。

エレベータと階段を使って展望台に到着。
吹きさらしの展望台は、通路が狭いもののまさに360度のパノラマが満喫できる。

 

新市街とボスポラス海峡。海の向こうはアジア側。

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ボスポラス海峡からマルマラ海方面を見る。左上、海の向こうはアジア側。

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金角湾の向こうに旧市街

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旧市街のトプカプ宮殿

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旧市街のアヤソフィアと通称ブルーモスク

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望遠で覗くとアヤソフィアはここから見ても迫力がある。

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旧市街から渡ってきたガラタ橋も見える。

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旧市街のシュレイマニエ・ジャーミィ

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アタチュルク橋と旧市街 

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この塔、もともとはビザンチン帝国時代の6世紀初め、灯台として建設されたものらしい。
日本では仏教が伝わってきたころ。まだ聖徳太子も生まれていない。

13世紀第四次十字軍遠征により破壊され、14世紀に再建。

 

17世紀、日本ではちょうど江戸幕府が始まったころ、
この塔から人工の翼をつけてアジア側に飛んだ人がいる。
名前はヘザルフェン・アフメト・チェレビ。
約三千メートルを飛び、アジア側の広場に無事到着したらしい。
四百年前の鳥人間コンテストだ。
翼を広げ、海峡を飛ぶ人間を、当時の人はどんな思いで見上げたことだろう。
飛行機とは違うとは言え、ライト兄弟の三百年前だ。

スルタンのムラト4世は、この発明に対し当初褒美を与えたりしたが、
なぜか、のちに彼を流刑にしている。
彼は、そのまま流刑地アルジェリアで亡くなったのだとか。
まさに命がけの発明・冒険だったわけだ。
ヘザルフェンという名は、それこそ、イスタンブールの小さな飛行場の名前として残っているらしい。

 

目の前に広がるすばらしい景色を眺めていると、
ヘザルフェンが翼をつけて飛び降りたくなった気持ちがよくわかる。

その後もこの塔は、監視塔、牢獄、天文台といろいろな使われ方をしながら残ってきた。
現在は展望台とレストランとなっている。

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ガラタ塔を出てからは、新市街のメイン通り、イスティクラル通りを目指すことにする。
途中、楽器店が並んだ通りを通る。
先の水道関連の道具・工具が目立っていた道具街といい、同類の商店が集まっている通りがある。
秋葉原、合羽橋、御茶ノ水あたりを思い出す。

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イスティクラル通りは、まさに「新」市街を実感する通り。

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人通りが多いばかりでなく、若者が好きそうな、新しい店が並んでいる。
ムスリムの衣装を纏った「観光客」ともよくすれ違う。

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色鮮やかな果物屋もある。

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途中、古地図を売っている店を覗く。
おもしろそうな本や地図が積んであるのだが、多くはトルコ語で読めない。
絵と図、数字だけを頼りにパラパラと眺める。
「何年頃の地図なんだ」くらいしか反応できないのがくやしい。

複製のせいか、値段の方はどれもそれほど高くはない。
長い筒となって荷物となるし、それでなくても広い壁がなくて貼れていない
地図やポスターが自宅にはすでにいろいろあるので、購入は見送ったが、
見やすく展示してあったので、この店だけでもゆっくり見れば相当な時間楽しめそう。

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OLD BOOKS MAPS ENGRAVINGSとある。engravingsとは版画、製版。

 

Sarayという老舗の甘いもの屋に寄ってお茶。

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メニューに変わったものをみつける。
Pudding made with rice flour and very finely chopped chicken breast

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しかも、Milky Dessertsの最初にリストされている。
鳥の胸肉、ササミの入ったプリン??
店のひとに確認するも、やはり鶏肉だと言う。どんなものだろう。よし試してみよう。

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味はほとんどわからないが、ササミの繊維質が食感として残っている。
全体としては米粉と書いてある通り、ういろうに近い感じ。

もちろん定番のものもいっしょに。

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一階には山のように甘いモノが並んでいる。

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KOTONという、トルコの若者に人気があるという店で、娘たちへの土産のシャツを買う。

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セールをしていてかなり安くなっている。で、人でごった返しているのだが、
冷房が効いておらずとにかく店内が暑い。

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いろいろ食べたい、とは思うものの、例によって暑すぎて夜になってもあまり食欲がない。

少し横道を散策。

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道の脇で水タバコを楽しむ人達。

横道もにぎやかで、美味しそうなロカンタ(レストラン)もある。

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ケバブを食べることにした。
このお店、「冷房あります」の張り紙にかなりひきつけられたことは否めない。
昭和の喫茶店か。

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確かに冷房は入っていたものの、実際にはほとんど効いていない。
量を食べられないので、「とにかく一番小さいもの」を頼んだ。
「ピテ」と言っていたが、それでも来たのはこんな感じ。
牛肉と鶏肉を頼んだが、牛肉の方が美味しかった。

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ガラタ橋、ガラタ塔、イスティクラル通り、タクシム広場、と歩いてきたが、帰りは、電車で帰ることにした。

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ジェトンというトークンを買って乗る。まずは坂を下る地下鉄。
急坂一区間のみ、のため車両もその角度に合わせて作ってあるケーブルカー。駅も車両も近代的で美しい。

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しかも、このアバウトなトルコで、次の電車の出発まで何分か、が、
なんと秒単位で表示されている。3分59秒後発だ。

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ケーブルカーだから正確な運行が可能なのだろう。
目しかだしていないムスリムの女性もイスタンブールではよく見かける。

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車両も完全に坂道仕様だ。

 

一区間だけ乗って、次のカバタシュでトラムに乗り換える。
こちらの車両もかなり新しいデザイン。

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ホテルの近くのレストラン。椅子席のほか、低いソファ席もある。

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ボスポラス海峡クルーズとガラタ塔からの景色で、
距離感も含め、全体の感じがかなりつかめた第一日目となった。

と、今日はここまで。

 

お別れに、ガラタ塔そばの猫を。

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(12) イスタンブール トプカプ宮殿 前編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月10日 (水)

トルコ旅行記2012 (10) イスタンブール 海峡クルーズ編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(10) イスタンブール 海峡クルーズ編


2012年7月13日

イスタンブール、アタチュルク空港に到着。
ニューヨークのJFケネディといい、パリのシャルル・ド・ゴールといい、
外国の空港には人名がついているところが数多くあるのに、
日本ではなぜか聞いたことがない。

予約したイスタンブールのホテルは空港「片道」の送迎がついていたので、
出迎えの方をお願いしていた。
帰るころには交通事情にも慣れるので自力での移動が簡単にできるだろうから、との判断。
飛行機は30分以上遅れたものの、出迎えの方は、よく見る「名前の札」を持って
到着ロビーで待ってくれていた。

ただ、彼が運転手というわけではなく、純粋に客待ちだけを仕事にしているようだ。
客を見つけると、運転手に携帯で連絡する、という分業体制。
何枚もの名札を持っている。

 

彼の携帯で呼ばれた運転手が現れ、ちょっと大きめのタクシーに案内してくれた。
乗り込むと車内の冷蔵庫で冷やしてあった水を「どうぞ」と差し出してくれる。
服装といい、態度といい、なんだか急に都会に来た感じだ。

途中、アンケートに答えてほしい、と回答用紙とペンを手渡される。
トルコ語じゃぁ、と思ってみたら、英語での質問なので聞かれていることはわかる。
服装はどうか、態度はどうか、水やスナックの提供はあったか、などなど。
これが理由だったのか。

それにしても、
「このドライバの運転は好きか」とか
「彼が運転する車にもう一度乗りたいと思うか」とか
真面目に答えようがない。
意地悪する理由は全くないので、できるだけプラス評価にしておいた。

 

そうこうしているうちに、
テオドシウスの城壁の脇やヴァレンス水道橋の下を通りながら、車は旧市街へ。

ものすごい人の数。信号で止まると、ペットボトルの水を売る少年たちが寄ってくる。
水以外にも、新聞やら弓矢のような民芸品?やら、渋滞の車の中を縫うように売り歩いている。
観光地とは言え、田舎の町ばかりを回って来た我々にしてみると、
田舎のねずみが都会にでてきてびっくりする、という絵本にあるような図。

 

観光名所アヤソフィアのすぐ近く、予約していた小さなホテルに到着した。
チェックインしたものの、停電中でエアコンはおろか照明さえつかない状況。
その間、宿のご主人の話を聞く。

ご主人、トルコ人だが25年間も九州大分に住んでいたらしく、日本語ぺらぺら。
息子さんはトルコでプロサッカー選手として活躍しているのだとか。すごい。
ものすごく流暢にかつ上手に日本語を操るのに、
ところどころ全く何を言っているのかわからないフレーズが混じるのが不思議。

到着早々、旧市街の日本人を狙った「悪い奴ら」の話をいろいろ聞かされた。
地方を回っていたせいか、緩みがちだった気持ちが引き締る。
「せっかく来た日本人に嫌な思いをさせたくない」とはっきり言っていたが、
まさにその思いからなのだろう。とにかく注意するに越したことはない。

 

さて、どこから回るか。
トプカプ宮殿のハレムは絶対見たいところのひとつであるが、たいへん混む、とのことなので、
明朝朝一での訪問で攻めることにした。
というわけで、まずは、海のほうへぶらぶらとゆるやかな坂を下りながら歩く。
商店の密集度といい、人の数といい、これまでの地方都市とは全く違う。

 

【スィルケジ駅】

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近代的なきれいな駅だが、ここは元オリエント急行の始発というか終着駅。
ちょっと気をつけて見てみるとオリエント急行をイメージさせる部分がまだまだ残っている。

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そう言えば映画「オリエント急行殺人事件」もイスタンブールから話が始まっていた。
急行列車にポアロが乗り込んだのもこの駅だ。

海に出た。

対岸にはガラタ塔を中心に新市街が広がっている。

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振り返ると旧市街にはいくつかの大きなモスクを始め、
数多くのミナレット(モスクの尖塔)が見える。

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右前方にはポスポラス海峡がひろがり、その先にはアジア側の街が見える。

人と路面電車と車があふれている喧騒の巷なるも、
ヨーロッパとアジア、
一千年ものあいだ大帝国の都だった旧市街と近代的なビルも見える新市街、
それぞれが狭い海を隔てて一度に目に入ってくる。
世界をすべて包含しているような錯覚に陥る。

1453年、千百年にわたったビザンチン帝国を滅亡させたマホメッド二世が口にした
塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」にある、
一度読んだら忘れないドキリとするセリフを思い出す。

「あなたの持つ富は、わたしにはもう必要ではない。
いや、あなたの持っているよりもずっと多い富を、贈ることもできるのです。
私があなたから欲しいと思うものは、ただひとつ。
あの街をください」

     塩野七生 「コンスタンティノープルの陥落」

力のあるものがここを欲しがった理由がここに立つだけでわかる気がする。

新市街を対岸に眺めながら歩いていると、
「ボスポラス海峡クルーズ! まもなく出るよ!」と呼び込みの大きな声。

いくつものコースがあることは知っていたので、
チケットオフィスで比較・確認してからどれに乗るか決めよう、などと
ぼんやり考えていたのだが、船のそばまで来て呼び込みの声を聞き、
「どうしようか」と妻の方を見ると、ほぼ一瞬にして「乗っちゃおう」の合意。
エィヤと飛び乗ってしまった。

現金をその場で払ってそのまま乗船。
チケットもないし、どういうコースなのかもよくわからない。まぁいいか。
呼び込みの声通り、ほとんど待ち時間なくすぐ出港。

ガラタ橋の向こうにガラタ塔が見える対岸の新市街から始まって、
ヨーロッパ側を左手に、アジア側を右手に見ながら、
ボスポラス海峡をぐんぐん上っていく。

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モスクがいくつも見える背中の旧市街の景色はどんどん遠ざかっていく。
360度見どころ満載のすばらしい景色。

進行方向左側に座ったので、まずはヨーロッパ側をゆっくり海から眺める。

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いちばん見たいルメリ・ヒサールまで行くのか、途中どこかに寄るのか、
飛び乗ってしまったのでよくわからない。

 

【ドルマバフチェ・ジャーミィ】

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そのうち誰か回ってきたら聞こう、と思っていたものの乗務員っぽい人は全く来ない。
「もし**というコースだったらここで降りよう」などと、ガイドブックを見ながら
妻とはいくつかのパターンを想定しておおまかな対応を簡単に相談。
以後は、景色に集中した。

 

【ドルマバフチェ宮殿】

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1843年から10年以上の歳月をかけて作られバロック様式とオスマン様式を折衷させた宮殿。
オスマン帝国末期のスルタンの何人かはトプカプ宮殿からここに居を移した。

新市街側の景色もどんどん変わっていく。

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ボスポラス大橋が見えてきた。
アジアとヨーロッパを結ぶまさにかけ橋だ。
桁の部分が薄いというかずいぶんシンプルな構造。
橋の近くはオルタキョイと呼ばれる若者の集まるショッピング街になっているらしい。

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次々と見所となるランドマーク的建物も見えてくるが、やはり地形やそれに伴う街の雰囲気など、
実際に目の前に広がる「今の街」を感じることができるのがいい。

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かなりの急坂で一気に海に落ちている地形部分もあり、斜面の家からの景色はすばらしいことだろう。
高級住宅地、別荘地、リゾート地、と思われる街が海に面して繋がっている。

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繋留されたクルーザの中には近未来的な前衛的デザインのものもある。

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黒海からマルマラ海まではわずか30km程度しかなく、その部分がボスポラス海峡であるわけだが、
そこは真っ直ぐな一直線ではなく、独特なカーブを描いた海岸線となっている。
その曲がり具合が、リゾート地の景色を生んでいる。

 

【ルメリ・ヒサール】
念願のルメリ・ヒサールが見えてきた。

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出発前、塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」を夫婦で読んで、
ふたりともぜひ実物を見たいと思っていたもののひとつ。
向こうには通称第二ボスポラス大橋(ファーティフ・スルタン・メフメット大橋)が見える。

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思ったよりも威圧感がある。
コンスタンティノープル陥落の前年、1452年メフメット2世がわずか4ヶ月で建造した要塞。

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妻もその威容に興奮気味。急坂に沿うように作られた城壁の上を観光客が歩いているのが見える。

 

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第二ボスポラス大橋もボスポラス大橋同様、桁の部分が薄いというかずいぶんシンプルな構造。
この橋は、日本と深いつながりがある。トルコと日本との繋がりについてはあとでまとめて書きたいと思う。

ルメリ・ヒサールの前を通過すると、「はい、ここまで」と言うかのように
船は大きく向きを変え、まさに出発地に戻る航路を取り始めた。

どこにも寄らなかったため下船はできなかったが、
ルメリ・ヒサールには、地上からも行きたいと思っているので、
詳しくはそのとき見てみよう。まずは海から全体を眺められてよかった。

船が180度向きを変えたため、これまでヨーロッパ側を見ていた左側の席から、
そのままアジア側を見られるようになった。
第二ボスポラス大橋、アジア側の橋脚。

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【アナドル・ヒサール】

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ルメリ・ヒサールのアジア側対岸にある。オスマン朝の砦。
1390年ころに建てられた。ボスポラス海峡の最も狭い部分が、
ルメリ・ヒサールとアナドル・ヒサールに挟まれているような配置となっている。

 

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アジア側はヨーロッパ側ほど急坂ではないものの、やはり別荘チックな建物が目につく。

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【ベイレルベイ宮殿】

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スルタンの夏の離宮。1865年完成。

 

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アジア側にもいくつものモスクが見える。

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【乙女の塔】

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占い師の
「愛娘は18歳(16歳とする説もあり)になる前に蛇に噛まれて命を落とすだろう」
という言葉を信じたこの地方の王が、愛娘をこの塔に閉じ込めて育てた。
18歳の誕生日、王は果物をいっぱいにした籠を手に塔にでかけた。
その籠の中に毒蛇が隠れており、娘は予言通りに死んでしまった、という言い伝えがある。

旧市街が見えてきた。

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旧市街の全景がだんだん大きくなってくる。
トプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクを含む、
まさに観光パンフレットによく出てくる旧市街の遠景は
ほんとうに幻想的で美しい。

左イェニ・ジャーミィと右シュレイマニエ・ジャーミィ

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スュレイマニエ・ジャーミィ

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近くに寄ってからのイェニ・ジャーミィとシュレイマニエ・ジャーミィ

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約2時間。見所が多くあっと言う間であった。
ガラタ橋のたともに船が着く。

今日はここまで。

 

お別れに、今日は猫でなく、トルコの印象を語った村上春樹さんの言葉を。

僕を引きつけたのは、そこにあった空気の質のようなものではなかったかと思う。・・・
肌ざわりも、匂いも、色も、何もかもが、
僕がそれまでに吸ったどのような空気とも違っていたのだ。・・・
それは不思議な空気だった。
旅行というのは本質的には、空気を吸い込むことなんだと僕はそのとき思った。
おそらく記憶は消えるだろう。絵はがきも色褪せるだろう。
でも空気は残る。少なくとも、ある種の空気は残る。

     村上春樹 「雨天炎天-ギリシャ・トルコ辺境紀行-」

 

(11) イスタンブール 新市街編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月 7日 (日)

トルコ旅行記2012 (9) カッパドキア 村の夜、村の朝編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(9) カッパドキア 村の夜、村の朝編


2012年7月12日

ホテルに戻って、ローズバレーの夕焼けを見ながら夕食。

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贅沢な時間だ。

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こんなに景色のいいテラス席なのに、ほかに食べている宿泊客がちっともいない。

 

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景色も食事もゆったりした気持ちで堪能することができた。

 

食後、翌朝の空港までのシャトルバスを予約するためフロントに行くと、
「朝早くて朝食が食べられないだろうから、朝食用のサンドイッチを作ってあげよう」と言う。
「今夜、部屋に届けてあげるから」
これはうれしいサービスだ。
夜買い物に出ることを伝え、そのあとに届けてもらうように頼んだ。

夜の買い物は、前日、妻がみつけて気にしていた陶器店へ。

中に入ると多くの皿が壁一面に飾ってある。こんな部屋が数部屋。

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スカーフをした体格のいい、いかにもトルコのお母さん、という感じの方が店番をしている。

少し話を聞くと、店の皿はすべてそのお母さんとご主人の作品だとか。
すべてハンドメイド。似た柄はあっても同じ柄は一枚もない。
Family Businessと言っていたが、まさにご家族全員で作り、売っている。
店の隅のPCでゲームをしている中学生くらいの男の子二人は息子さんで、
彼らもいろいろ仕事を手伝っているらしい。

トルコ独自のチューリップやバラやカーネーションのデザインについて話を聞く。
すこし大きな鉢が欲しかったが、
持ち帰ることを考えて泣く泣く小さなものから選ぶことにした。
ほかにも土産用にいくつかを選んだ。

お母さんの口調は終始、自分たちの仕事、とりわけご主人の仕事への誇り、敬意に満ちていて、
聞いていてほんとに気分がいい。
ご主人の仕事ぶりの自慢はしても、商売の自慢はしない。
日本の客に少しでも多く売りつけよう、といった魂胆は微塵も感じられない。

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店頭の品々を、作っている人ならではの話を聞かせてもらいながら見ていたら、
「こちらへもどうぞ」と急に地下室のほうに案内された。

それまで真っ暗だった階段の明かりをつけてくれる。
「何があるのだろう」とわくわくしながら降りていく我々二人。

「これはまだ作っている途中なの」と模様が描きかけの、
まだ完成してない皿が階段の途中に置いてあったりする。

下にも上と同じような大きな部屋があり、壁にも同じようにずらりと皿や鉢が並んでいた。
ただ、上のお店のものが「商品」なら、こちらはまさに「作品」と呼びたくなるような品々。
模様といい、色といい、格が違うことが素人にもすぐにわかる。
大きさも大きなものが多い。もちろんご主人の作品群。
片隅の机に置いてあるトルコの大きな美術図鑑のページをめくりながら、
これはこの柄で、と伝統との関係も説明してくれる。

上のお店の商品も素朴な柄でおもしろいと思っていたが、
こちらはほんとうに美術品というレベルで美しい。
「もうイスタンブールに行った?」
「いえ、明日から」
「モスクや宮殿にあるイズニックタイルのこういった柄を注意して見てみて」
といくつかの典型的なトルコ伝統の模様を紹介される。
それらが大きめの皿に繊細に描かれている作品もある。

いゃぁ、いいものを見せてもらった。
さすがにこちらについてはひとつも値段が聞けなかった。
聞いてももちろん買えないし。
いぇ、額ではなくて持って帰れないし、ってこりゃいいわけか。

上の階に戻り、土産用に選んでいたものを精算。プチプチで丁寧に包んでくれる。

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お母さんの話しぶりというか人柄に触れ、ちょっと躊躇してしまった部分はあるが、
これまでトルコで何度もしてきたし、との思いから、精算の際値引き交渉を振ってみた。
するとお母さん、
「トルコでは安く仕入れて多くのマージンを乗せて売るのが
 特に観光客に対しては確かに一般的。
 だから値引き交渉は当然だが、うちはいま話した通り、
 家族だけでやっているFamily Businessなのでマージンは取っていない。
 なので、一切値引きはできないンです」
と毅然とした態度でキッパリ。

いいね、いいね、こういうの。不快感ゼロ。
「安くして売ろう」なんて全く思っていないところがいい。
気持ちよく支払いができること以上に、いい買い物はないのかもしれない。

お母さんがどんな方か気になります?
5年前の写真ですがUpしているサイトがありました。写真はココ
ねっ、いいお顔でしょ。
今はかなりふくよかになっていますが。

お母さんが妻に聞く。
「お子さんはいるの? 下の子はいくつ?」
「娘が二人いて、下は二十歳」と答えると
「いいわねぇ。特に女の子は。
 男の子はたいへん。
 そうやって夫婦二人で旅行ができるようになって、
 もう子育ての問題は終わった(finish)んだものねぇ」と。

どこの国でも子育ての気苦労は一緒、母は一緒、ということか。

もちろんこちらとしてはまだまだ終わった気は全くしていないが、
年頃の男の子二人の子育ては、仕事以上にいろいろたいへんなのだろう。

陶器店にはずいぶん長い時間いた。
土産に買ったいくつかの器と共に、ちょっとほっこりした気持ちで夜のギョレメを歩く。

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夜はまた、夜の雰囲気が楽しめる。

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照明で岩が違った表情を見せている。

 


2012年7月13日

 

早朝。
前日、興奮して乗った気球が今日もたくさん見える。

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村から眺めると気球のゴンドラの中が遠い夢のよう。

 

朝日に照らされた村の中を少しゆっくり歩いてみる。

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特殊な地形ではあるが、当然ながら普通の人々の生活がそこにはある。

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観光で来て、わずか二泊しただけなのに、村が、小さな通りが、なんだか妙に愛おしい。
硬い岩が柔らかく感じられるのは、単に岩の質感だけが原因ではない気がする。

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シャトルバスでネブシェヒル空港を目指す。
ギョレメ内のホテルを回って、同じ便の乗客を集めてから空港に向かう。
バス代は一人17トルコリラなので二人で34トルコリラ。
これに対して50トルコリラ札で払おうとしたら釣りがないと言われた。
釣りがない、と言われることが多いので、意識しての小銭の用意もかなり慣れてきた。

ネブシェヒル空港は、小さな空港。ボードにも我々の便の表示しかない。

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ホテルが朝食用に作ってくれたお弁当は、サンドイッチとりんごと水の3点セット。
もう十分すぎる量。空港で食べる時に撮ったらこんな。

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ターミナルビルからそのまま飛行機に乗れるボーディング・ブリッジはもちろんなく、
歩いて飛行機の下まで行く。

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便が少ないせいか満席。
イスタンブールまで一時間ちょっとで着くのだから飛行機はありがたい。

カッパドキアよ。
気球の女性パイロットと陶器店のお母さん、どうもありがとう。お元気で。

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途中、塩湖で有名なトゥズ湖が見える。

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さて、いよいよ最後の訪問地イスタンブールだ。

今日はここまで。

 

お別れに、ウフララ渓谷の猫を。

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(10) イスタンブール 海峡クルーズ編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年10月 3日 (水)

トルコ旅行記2012 (8) カッパドキア グリーンツアー編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(8) カッパドキア グリーンツアー編


2012年7月12日

自力で回ることが難しい場所を組み合せたグリーンツアー。
いくつもの旅行会社が同じようなコースでツアーを組んでいるが、
カッパドキアでの「ウフララ渓谷と地下都市」を含んだこの方面の一日ツアーは、
みなグリーンツアーと呼ばれている。
アヴァノス方面を回るものはレッドツアーと呼ばれ、ほかにブルーツアーもある。
気球ツアーのゴンドラと同様、ここでも単純に色が識別に使われている。
グリーンツアーは、カッパドキアのツアーではあるが、一回りすると移動距離は200km以上にもなる。

朝食後、ツアーに出発。

各ホテルを回って集められたツアー客は、ミニバス2台に分乗して回ることになった。
英語のガイドさんがつく。
このガイドさん、観光場所の説明だけでなく、ツアー客への心配りもプロフェッショナル。
「どこから来たの?」から始めて、米国の人ともブラジルの人とも、
次々と相手に合わせて話題を繋いでいくのは、慣れているとは言えたいしたものだ。
ブラジルから来た、と聞くと、世界遺産になっているオウロ・プレトに行ったことがあるか?
そこからゴンゴ-ニャスは近いのか? などなど固有名詞が反射的にどんどん出てくる。
誰だって自分の国の土地の名前を言われれば悪い気はしない。もうそれだけで確実に親近感が高まる。
初めての、知らないもの同志がコミュニケーションを始める時、
地理、特に土地の名前を知っている、ということが持つ力はほんとうに大きいことを痛感する。
とはいえ、相手はまさに世界中から集まってくる。
慣れと経験と知識、プロフェッショナルは一日にしてならず、という感じだ。

 

【ギョレメ・パノラマ】
火山灰の堆積による土壌が削られてカッパドキアの独特な景観ができた概略を聞く。
地質学関連の言葉?か説明に知らない単語が多い。ハイ、勉強不足であります。
baby(赤ちゃん)と言っていたが、まだ地形形成が若い部分と、
かなり進んだ部分があることがよくわかる。

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土産物屋には、ナザール・ボンジューウと岩を彫った妖精煙突が並んでいる。

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典型的なカッパドキアの土産物だ。
ナザール・ボンジューウは「視線のガラス玉」という意味で、嫉妬の視線をはね返すお守り。
トルコでは嫉妬深い視線を受けると病気になると信じられているらしい。
そう言えばホテルの部屋のドアにもこんな風にかけてあった。

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土産用のランプは木に吊るしてあるが、朝の光が透けて美しい。

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そこから一気に、デリンクユ地下都市に向かったのだが、到着するとちょうど多くのツアー客が集中しており、
かなり並ばないといけない状況。その状況を見て、
小規模グループだった我々は急遽見学の順番を変更することにした。
ウフララ渓谷を先に見ることにしたのだ。
交通量がほとんどないとは言え、舗装状態がよくない一般道を140km/hで突っ走る。
早朝の気球とは大違い。思わずシートベルトをしてしまった。

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カッパドキアの土壌を作った火山のひとつ、ハッサン山。

 

渓谷に行く途中で出会ったムスリムの女性たち。スカーフのほか、暑いのにコートまで着ている。

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【ウフララ渓谷】
カッパドキアにある断崖と深い谷。この断崖に五千もの洞窟住居、百を越える岩窟教会が残っている。

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ビザンチン時代、修道士が隠遁生活を送り、崖に多くの岩窟教会や住居を設けた。

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この谷底を一時間ほどハイキング。

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渓谷の岸壁に洞窟住居のあとがいくつも見える。

ガイドさん、ハイキングをしている時なども、参加者に次々と声をかけながら歩いている。

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まさにいろいろな国の人がごちゃまぜ状態になっているにもかかわらず、
我々にも歩きながら「Go slowlyは日本語で何て言うんだ」と聞いたかと思うと、
返事を聞いた途端、かなりきれいな発音で「ゆっくり行こう」と皆に声をかけたりしている。

緑も美しいが花の種類も多くて思わず立ち止まってしまう。

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途中の休憩所もトルコ風。

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断崖には、どうやって住んだのだろうと思わずにはいられない住居や教会の跡が。

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ハイキングのあとは、皆で揃って昼食。
韓国人の母子、米国ワシントンDCから来ている米国人夫婦と同じテーブルになった。
韓国人の息子は40代。足が弱くなっている母親を気遣っている。
キリスト教関係の非営利団体で働いているとのこと。
米国に長く住んでいたものの今はスウェーデンにいるのだとか。
米国人夫婦はご主人が銀行員、奥さんの方が教師で、いかにものインテリ夫婦。

配膳前、準備されたサラダの皿にたくさんの小鳥が集まって、サラダをついばんでいた。
それを見て、追い払え、とか、衛生的でない、とか言わずに
「見てみろ、さぞやおいしいサラダに違いない」
と言って皆の笑いをとっていたのは、別なテーブルの陽気な若いアメリカ人。

断崖の岩窟教会を思い出してか、米国人のご主人から、韓国人に
「トルコに来る際、ボスからイスラムの国でキリスト教の布教をするようには言われなかったのか」
と軽い口調で質問が投げられた。
「そんなことはないよ」
と真面目に返す韓国人。
「使いたければ、空いている教会もいっぱいあるじゃないか」
と渓谷の方に目をやって笑っている。

食事は、自分で好きなものを選んで、と言われたが、選択肢がよく聞き取れず知っているものを頼んでしまう。

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生真面目そうな韓国人からは
「トルコとアメリカはどんな関係なんだ?」
とこれまた硬い質問。
こういう時に流暢に話ができるンだ。アメリカのインテリは。
「トルコと日本の関係は?」
と聞かれてどれくらい喋れるだろうか。たとえ日本語でも。

moderateという単語を使って、トルコの気質を米国人がどう捉えているかを話していた。
極端に走らない、穏健な、といった感じだろうか。
イラン、シリアとの関係も含めて
「だから二つの世界のbridge(架け橋)の役目をしている」と。
「もちろん米国はトルコ側だけどね」
と最後に付け足していた。

この米国人ご夫妻、イスタンブールからここカッパドキアに回ってきている。
我々が「逆に、これからイスタンブールに行く予定だ」と言うと、
イスタンブールがおもしろい街だったことをかなり興奮して話し始めた。
「remarkableな街だ」と。

remarkable。
注目に値する、優れた、卓越した、目立った、並外れた、異例の、
などなどいろいろな訳語が辞書にはあるが、
あの時の彼の話しぶりを思い出すと、どれもしっくりこない。
若い人が言う「スゲェーよ、あの街」とか「あの街はヤバイですよ」とかの
ニュアンスに近いような気がする。

少し残飯のある食べ終わった皿を鳥たちが集まりやすいテーブルにつきだして
「さぁ、こんどは思いっきりワイワイやれ! 騒ごうぜ」という感じで、
「So, Let's party!」と言っていたのも先の陽気なアメリカ人だ。

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おだやかで楽しい雰囲気の昼食だった。味ももちろん◎。

イスタンブールの印象を語った米国人には、感想をもっと聞いてみたかったので、
昼食後も話をするチャンスを伺ったのだが、
なかば抱き合うように奥様とくっついていることが多く、
なかなか声がかけられなかった。

 

【セリメ教会】
ここの岩窟教会は、かなり大きい。

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岩を掘った教会が岩の中で2階構造を成している。

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ところで、この教会に限らず、かなり急な岩の斜面が観光客に公開されている場所がよくあるが、
手すり等は一切設置されていない。
もちろんそんなものはないほうがいいが、事故はないのだろうか。

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ほんとうにちょっと足を滑らせたり、観光客同志がぶつかったり、
写真に夢中になって不注意で一歩踏み出したりすれば、確実に死んでしまうような高さでも、
ナンにもない。

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【デリンクユ地下都市】
地下都市は、紀元前16世紀頃、ヒッタイト人によって造られたのが始まりと言われているが、
発祥や歴史についてはわかっていないことが多い。
紀元前5世紀ころの記録にも登場しており、
キリスト教徒が来る以前から地下都市として機能していたようなのだが、
3世紀から4世紀にかけて、弾圧を逃れたキリスト教徒が多く移住してきて、さらに発展させている。

ここはアリの巣のように、地下へ伸びる地下都市。
深さ85m、地下7階とも8階とも言われているが、それこそどうやって掘ったのか。
地上で見てきた岩窟教会と同様、地下も岩だ。(だからこそ階層構造がとれたとも言える)
デリンクユとは「深い井戸」のことだが、直径1m程度の竪穴が、地下構造を貫いている。

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通気孔と同時に、どの層からも水が汲めるような井戸にもなっている。

内部には、教会、台所、食料庫、食堂、墓地などがあり、生活に必要なものはすべて揃っている。
通路は狭いが、中の教会や食堂などは突然大きな空間になっていたりする。
地下数階のかなり深い部分だ。

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来襲した敵を防ぐ分厚い岩の回転扉もある。

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ゴロゴロと転がして塞ぐと、中心に窪みのある側からしか開けられない。

 

屈まないと歩けない通路もある。観光用に最低限の照明はあるが、閉所恐怖症の人にはつらいだろう。

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この地下都市、「地球の歩き方」には「4万人が暮らしていた」と書いてあり、
「わがまま歩き」には「収容5000人」とある。
いずれにせよ、掘った方も、暮らした方も、信じられない世界だ。

[通気孔+井戸]は、こんなカタチで地上に突き出ている。

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地下都市を出てきたところで、めずらしく個人旅行の日本人男性ふたりと出会い、ちょっと話をする。
一人は金融関係者で夏休み、もう一人は学生。
金融関係の方は仕事でトルコの銀行とつながりがあるらしく、それでトルコに興味を持ったのだとか。

途中寄った土産物屋で店員が
「どこに泊まっている?」と聞くので
「ギョレメだ」と言うと、
「父親がギョレメでレストランをやっているのでぜひ行ってくれ。
 オレも今夜行くので割引するから」
とメモにお店の名前を書いてくれた。
今夜は、ホテルのテラス席で、ローズバレーの夕日を見ながら夕食にしようと思っていたので、
ちょっと行けそうになかったが、なにかあれば、とメモだけは受け取ってポケットに入れた。

 

【鳩の谷】
岩の表面の無数の穴は「鳩の家」と言われる鳩の巣で、
住民は昔から鳩の糞を集めて火山性でやせた土地の肥料とし、ブドウ畑を作っていたらしい。

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鳩の谷から前日いったウチヒサルを見るとまた迫力が違う。

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谷の全景はこんな感じだ。

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気球から始まって、渓谷、ハイキング、岩窟教会、地下都市まで、今日も盛りだくさんの一日だった。

夕食から夜の話は、次の回に。

 

お別れに、「後ろから失礼」の猫の写真を。

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(9) カッパドキア 村の夜、村の朝編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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