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2012年10月31日 (水)

トルコ旅行記2012 (16) イスタンブール グランド・バザール編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17  (旅行記の目次はこちら


(16) イスタンブール グランド・バザール編


2012年7月14日

ブルーモスクからグランド・バザールまでも歩いて行くことにした。
途中、確認のために道を聞くと、「息子がいま東京に住んでいる」というおじいさんで、
丁寧に分かれ道の角まで一緒に来てくれた。とにかく親切な人が多い。

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【グランド・バザール(カパル・チャルシュ)】

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十数箇所ある入り口のひとつ。上に小さく1461年とある。 応仁の乱の6年前。
トプカプ宮殿の着工もおなじころだ。

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1453年にコンスタンティノープルを陥落させたメフメット2世は、
商人たちに安全かつ秩序ある商いの場を与えようと、市場の建設を命じた。

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その後、スレイマン大帝が拡張。 今の大きさとなったのは18世紀初めごろ。

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トルコ語の「カパル・チャルシュ」とは、屋根付きの市場という意味。
五百年前のアーケード付きショッピングモールだ。

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東西交易によって得られた富がイスタンブールの繁栄を支えてきたが、
その象徴とも言える賑やかさがここにはある。

店舗は現在、全部で4400もあるらしいが、とにかく大きく、通路が迷路のようになっている。
市場としては中東最大と言われている。
かつては、トルコ中のあらゆる産物を扱っていたが、今は基本的に土産物屋ばかりだ。

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グランド・バザールでは日本への土産を買った。
ストールというかマフラーの大きなもの。
カシミアであったりシルクであったり、素材もいろいろだが、柄も生地もほんとに豊富で、
選択肢の多さには圧倒されてしまう。

 

いくつかのお店を覗いてお薦めを見せてもらったあと、ここにしよう、の店を決めた。
日本に残っているふたりの娘の分も含めて、何枚か買うことにしていたのだが、
選択肢が多い分、品選びにはかなり時間が...

店のお兄さんは、「送る相手は何歳か」、「こんな柄はどうか」、「こんな巻き方はどうか」、と
次から次へといろいろな商品、巻き方を紹介しながら、
畳んであった時には気付かなかったような、商品の柄や色を上手にアピールしてくる。

土産用と言っているのに、こちらの反応を見ながら
「これは、奥様御自身用にいかがでしょう」と全くスキがない。

押し付けがましかったり、「早く決めろ」の空気があったりしたら、
きっと途中で逃げてしまったと思うのだが、
紹介だけしたら、あとは並べてじっくりとこちらの判断を待つ、という感じだったので、
急かされることもなく、商品選び自体はマイペースでできたほうだと思う。

とはいえ、妻があれこれ悩む間、私自身は時間がかかっていることに
相当うんざりした顔をしていたのであろう。

お兄さんは、
「He hates taking time.(時間がかかっているのがほんとにィヤなンだね)」
と言いながら、
「まぁ、座って待ってて」と椅子を用意してくれたりもした。

とにかく、商売とはいえセールスはたいへんだ。
多くの候補の中から、ようやく買うものが決まった。
結果として商品自体の質にも、そして、交渉結果の価格にも満足できる買い物となった。

もちろん「奥様御自身用」も含めてのお買い上げである。

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ところで、コンスタンティノープルを征服したメフメット二世は、
このグランド・バザールの基礎を築いただけでなく、征服後の都市の復興・再建にも力を注いでいる。

ローマ時代から使われている水道を補修し、学校や病院を設立。
ギリシャ正教の聖堂アヤソフィアをモスクに転用するだけでなく、新しいモスクの建設にも着手。
ハードウェア面だけでなく、トプカプ宮殿の回にも書いた通り「教育システム」の整備も進めている。

一方で、ムスリム富裕層を強制移住させたり、異教徒にも一定の人権を与えて新都に住むことを許したりと、
人口の増加にも手を尽くしているのだ。

武力で陥落させたあと、復興と人の流入を具体的な施策で推進していくスルタン、メフメット二世。
そのころ、彼はいったい何歳だったのだろうか。

一千年以上にも渡って難攻不落を誇っていたビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルを
十二万人とも言われたトルコ軍を率いて落としたスルタン。

ハードウェア・ソフトウェアの両面に渡って計画的にインフラ整備を進め、
富の集まる街づくり、国づくりを新都イスタンブールを中心に積極的に推進していったスルタン。

そのスルタン、メフメット二世は、1432年生まれだ。
つまり、コンスタンティノープルを制したときはまだ21歳。

首都をエディルネからここコンスタンティノープル(のちのイスタンブール)に移しての国づくりを
スピード感をもって実行していたのは、若い若い支配者だったのだ。

そのメフメット二世について、Wikipediaにはたいへん興味深い記述がある。
今日はお別れにそれを添えておく。

オスマン帝国の歴代皇帝は、皇帝の地位から失脚した場合にも生計を立てられるよう、
手に職をつける風習があったが、彼の専門は「庭師」であったといわれている。
庭園の手入れを趣味の1つとしており、
遠征先では庭園に植えるバラ、ユリ、チューリップなどの植物を採取し、それを持ち帰った。
     Wikipedia

「庭師」にも驚くが、それ以上に前半、「失脚した場合にも生計を立てられるように手に職を」って
そのまま信じていいのだろうか。 しかもそれが「風習」? 
ほんとうにどういう国なんだ、オスマン帝国。

 

(17) イスタンブール シュレイマニエ・ジャーミィ編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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