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2012年10月17日 (水)

トルコ旅行記2012 (12) イスタンブール トプカプ宮殿 前編 ハレム

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(12) イスタンブール トプカプ宮殿 前編 ハレム


2012年7月14日

ホテルの朝食のバッフェは、
「トルコ人のお母さん」という感じの方がひとりで調理しながら対応してくれている。
品数が多いわけではないが、十分すぎる量で味も実に美味しい。

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さて、今日はトプカプ宮殿、アヤソフィア、ブルーモスクなどなど
イスタンブール観光のまさにゴールデンルートを巡る予定。

混む前に、ということで最初にトプカプ宮殿を目指す。ホテルからは歩いて5分程度。
石畳の坂を登ってゆく。

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【トプカプ宮殿】
トプカプ宮殿は1467年にメフメット2世により造られ、
1856年にアブドゥネ・メジットがドルマバフチェ宮殿に移るまでの約370年間、
歴代スルタンの住居として使用されていた。

応仁の乱のころに造られ江戸幕末まで使われた、という感じだ。

ボスポラス海峡を警備するために、丘の上に大砲を据え付けていたので、
トプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)と呼ばれるようになったらしい。

ウィーン付近から黒海、アラビア半島、果ては北アフリカまでを支配したオスマン朝の中心地だ。

 

【アフメット3世の泉】 皇帝門の前、1728年建造

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【総門(皇帝門)】

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【聖エレーネ(聖なる平和の意、トルコ語でアヤ・イリニ教会)】

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アヤソフィアが建てられる以前の総主教座。

 

【中門(儀礼の門)】

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ほぼ開館と同時に入場。説明を日本語で聞きたかったため、オーディオガイドも借りた。
今は録音テープではないため、トラック指定のための番号を押すだけで、
簡単に好きな場所の説明をランダムに聞くことができる。
もちろん二度聞きも簡単。便利になったものだ。
って言うか、録音テープっていったいいつの話だ?

入場後、まっすぐにその先のハレムを目指す。
別料金にはなっているが、トプカプ宮殿に行ったら必見だ。

 

【ハレム】

美しいタイルに囲まれたハレムの見学はこんな部屋から始まっていく。

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スルタンは馬車のまま入るらしく、馬車の通り道は小石が敷き詰めてある。

以降、タイルの写真は、主に部屋の壁面を撮ったものだ。

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各柄のデザインが分かるように近くに寄った写真を前半に、
部屋の雰囲気がわかるように引いて撮った写真を後半に並べて、
しばしハレムの装飾を楽しんでみたい。

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ご覧の通り、ハレム内はタイルがたいへん美しく、まさにそれが観光の目玉なのだが、
そもそものここの主役はもちろんタイルではない。
そこにいた女性たち(オダリスク)、宦官、それにスルタンだ。

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のちに、ハレムのイメージとしてよく知られるようになる美女があふれた官能的な世界は、
19世紀頃のオリエンタリズム絵画の影響で、特にヨーロッパにおいて、
イメージだけがひとり歩きして膨らんでしまった結果らしい。

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そこで、今日の旅行記は、すこし趣向を変え、
塩野七生「イタリア遺聞」にあるハレムの記述をメインにして、
ひとり歩きして膨らむ「前」のハレムの姿を共有しながらハレムの往時に思いを馳せたい。

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さて、いくつかキーワードを選びながら「イタリア遺聞」を読んでいこうと思う。

このあと、このように背景が水色になっている部分は、本の記述をほぼそのまま引用している。

前後を含め、正確な記述を知りたい方は、ぜひ原文のほうを参照あれ。
ブログの右側にはアマゾンへのリンクも提示しているが、
新潮文庫で流通しているため、どこからでも簡単に手に入る。

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貝を使った装飾が施されている扉が数多くある。

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一部屋にだけ人形が置いてあったが、置いてあるだけで何も伝わってこない。

 

まず最初に、宦官について触れておこう。

【宦官】

黒人の男奴隷は、二十人ほどいた。
だが、主にアフリカから連れて来られたこれらの黒人奴隷は、
トルコ直轄領内での去勢は禁じられていたために、すでにアフリカで去勢手術を受けていて、
しかも、定期的に、去勢が完全であるかを調べる診断も受けなければならない「男」たちであった。

この黒人奴隷たちを統率するのは、「女たちの頭」(キズラル・アガ)と呼ばれる、
これも去勢された黒人の奴隷で、彼が、ハレムの執事であったと言ってもよい。

ハレム内のあらゆることとすべての人間が、この黒人去勢奴隷の管轄下にあったからだ。

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そういった宦官に管理されているここの主役、女性たちはどんな人たちだったのだろう。

【三百人の女たち】

スルタンと二十人ほどの黒人の「宦官」以外は入れなかったハレムの主な住民は、
これも奴隷の身分では変りはない女たちである。
十五世紀後半のマホメッド二世の時代も、十六世紀半ばのスレイマン大帝の時代も、
彼女たちの数はだいたい三百人であったと言われる。

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そのほとんどが、アルバニア、ギリシア、グルジア、コーカサス地方も出身者で、
スルタンのハレムにたどり着いた経路は、次の三つに大別される。

  * 領主からスルタンに献上された。
  * 海賊にさらわれてその頭がスルタンに献上した。
  * 首都コンスタンティノープルの奴隷市場で買われた。

一人の例外もなく処女でなければならなかった。

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女たちの位置は、生まれとは無関係に決められており、
領主の娘も、皇帝の息女さえもいたが、皇女であろうとアルバニアの百姓の娘であろうと、
ハレムに入れば立場は同じになった。

彼女たちは例外なくキリスト教徒の生まれだった。
トルコ女の奴隷は、禁じられていたから。

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【ハレムの女たちの位置】

(a) 最下層
まだスルタンの眼にとまらず床を共にしたことのない女たち。
彼女たちは、十人ずつに分けられて一室に同居させられ、狭い部屋の床にじかに寝る。
前身が王女であろうと、この待遇は変わらなかった。

(b) 最下層(a)の上
スルタンの眼にとまり、床を共にしたことはあったが、子を与えられなかった女たち。
最初の交渉で子を与えられなかった女は、それ以後は二度と床を共にはできない決まりになっていた。
十人一組ではなかったにしろ、この段階では、まだ同居組に入る。

(c)  (b)の上
男女を問わず、子を与えることのできた女たち。
彼女たちになると、はじめて専用の個室を持つことができた。
  この階級も二分されていて、

(c-1) 正妻
長男を与えた女からはじまって四人までが、
女性冠詞のついたスルタンと呼ばれる正妻たちで、
彼女たちになってはじめて、幾人かの専用の召使つきのアパルトマンに住むことが許されていた。

(c-2) 正妻以外
『正妻』以外の女たちは、妊娠しても、堕胎を強制されることさえある。

正妻たちの立場も、皇太子の母以外は安定してなく、寵妃と入れ換えられることも珍しくはなかった。

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【ハレムでの最高の地位】

スルタンの生母が占めていた。
女は望むだけ持てるスルタンも、母は一人しか持てなかった事実からして、
当然の帰結であっただろう。

イスラム教の教祖マホメッドも、天国はお前の母の足許にある、と言ったくらいだから、
奴隷の身分には変わりなくても、生母となれば別だった。

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個室を持てるようになった女性たちの建屋や皇子の部屋は、庇の下も凝っている。

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ハレムから見えるガラタ塔。奴隷の身である彼女らはどんな思いで外の景色を眺めていたことだろう。

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いよいよハレムも終盤だ。見てきた通りタイルの文様の種類は多いが、幾何学模様はめずらしい。

 

ここハレムに集められた女たちには、様々な教育の機会が与えられていた。

Wikipediaには、
「黒人の宦官によって生活を監督されながら歌舞音曲のみならず、
礼儀作法や料理、裁縫、さらにアラビア文字の読み書きから詩などの文学に至るまで
様々な教養を身につけさせられた後、侍女として皇帝の住まうトプカプ宮殿のハレムに移された」
ともある。

この「教育」こそが、オスマン朝を語るうえで頻繁に登場する重要なキーワードだ。

後編では、イェニチェリと呼ばれるスルタンの直属軍についても触れたいと思う。
ここでも「教育」が大きな意味を持っている。

 

今日はここ、ハレムだけ。

 

お別れに、ひとつおまけ。

多くの美女を独占したハレムは、ある種、男の楽園、天国のように
官能的な幻想とともに語られることが多いが、小鷹信光さんは、
井原西鶴の好色一代男に登場する女だけの島「女護島」を見出し語として選んで、
こんな解説を書いていた。

【ニョゴガシマ】
女護島。「ニョゴノシマ」ともいう。西鶴の好色一代男・世之介が最後に行ったところ。
<all women's island>では風情がないが、ここは天国というよりむしろ地獄だろう。

   小鷹信光「和英ポルノ用語辞典」

 

(13) イスタンブール トプカプ宮殿 後編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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応仁の乱のころに造られ江戸幕末まで使われた、という感じだ。

↑ 笑い

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