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2012年9月

2012年9月30日 (日)

トルコ旅行記2012 (7) カッパドキア 気球ツアー編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(7) カッパドキア 気球ツアー編


2012年7月12日

朝4:45、早起きしてツアーバスを待つ。

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朝焼けのギョレメの街

気球の準備が進んでいるのも見える。

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朝早いのに各社ツアーバスが次々とホテルにやって来て、客を拾っていく。
夜明け前の澄んだ空気が気持ちいい。
我々が予約したツアーはちゃんと来てくれるだろうか。

個人で動くと常にこういう不安からは離れられないが、
起こる前から心配だけしていてもしかたがない。
「なにかあったらそのときに考えよう」

来た! 4:47 ぴったりじゃないか。

 

【気球ツアー】
まずは気球会社の待合室に。
ミニバスで各ホテルから集められた客は100人以上。
ゴンドラ別のグループ分けの間、簡単な朝食が振舞われる。
このグループ分けには色を使っていた。
これまた文字を使わずにコミュニケーションがとれる世界共通言語。

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こういう気球会社がここギョレメにはいくつもある。

グループ別に再度バスに乗り、出発地点を目指す。

出発地点では、多くの気球が準備中。

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ボォッーというバーナーの炎の音が思った以上に大きく迫力がある。
パイロットは、4つのバーナーと天頂部の排気弁をコントロールするロープだけを使って操縦する。
ゴンドラは籐で編んだようなカゴ。
着陸時にショックを吸収するというメリットがあるらしい。
着陸時の姿勢について最初に簡単に指導がある。

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ひとつのゴンドラに約20人。かなり大きなゴンドラだ。


いよいよ離陸。ぐんぐん上昇するが加速感はない。

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視界がどんどん広くなると同時に、回りの気球の数に驚く。
正確には数えられないが、数十。

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見慣れたロゴでHISと大きく書かれた気球もある。
ビルと呼べるような建物が一切ない石の街を覆う澄んだ空気が美しい。

離陸直後、日が昇ってくる。

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気球の影が谷の斜面にうつる。

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朝日に照らされた渓谷と奇岩の色は言葉にならない。

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前日、徒歩で登ったウチヒサルもよく見える。

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一段落したころ、ゴンドラのセンタに乗って気球を操縦している女性パイロットが自己紹介を始めた。

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最初に自分の名前の紹介。続いて、気球の操縦歴が15年になることを話しているが、
なんだか妙に自信たっぷりで余裕が感じられる。
この自信、口だけではなかった。

 

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高く昇って全体の雄大な景色をゆっくり見せてくれたあと、
ゴンドラは高度を落として谷に入っていく。

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もうゴンドラの底が谷の岩や草木に触れそうなほど低く。
皆を低空でビックリさせたあと、そのギリギリの高度を維持しながら
今度はV字の谷の斜面に沿うようにゆっくりと斜め上方向に上昇していくのだ。
垂直方向はバーナーと排気弁、水平方向は完全に風まかせ。
なのにまさに意のままに動かしているようにしか思えない。

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斜面の洞窟も谷底の木々も手に取るように間近に見える。
 
バーナーとロープと風との絶妙なコンビネーション。ほんとうに素晴らしい。
こんなに細かいコントロールができるものなのだろうか。

この景色は、飛行機はもちろんヘリコプターでも無理だ。
気球に乗ることを「高いところから景色を眺めるだけなら」と単純に思っていたことは大間違いだった。

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バーナーによる熱を使っているとはいえ、外気との比重の違いだけで生じている浮力、
進行方向については100%風まかせ、この「無理をしていない」おだやかな自然との一体感が、
飛行機などにはないリラックス感を生み出している気がする。
シートベルトすらしていないのに、安全への不安感は驚くほどない。
それどころか「流れにまかせて」は、体のいろいろな部分の緊張を解きほぐしてくれるような気さえする。

 

約一時間の遊覧飛行。まだまだ漂っていたかったが残念ながら着陸だ。
トランシーバーで連絡をしていたので、着地点にはゴンドラを運ぶトレーラが待機していた。
するとなんと、このトレーラの上に直接着陸しようというのだ!

夢中になって下を見ていたので写真を撮り忘れてしまったが、
ほとんど衝撃もなく、ほぼ完璧に着陸した。

降りたあと写真を撮ったので、見て欲しい。
このトレーラの上に約20人が乗った風まかせのゴンドラを、向きまで合わせてピタリと着地させたのだ。

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谷での絶妙なコントロール、トレーラの上にピタリと着陸する技、
いゃぁ、参りました。
余裕綽々の話しぶりだけでなく、
仕事ぶりで「どうだ」とその実力を示せる姿はほんとうにカッコイイ。

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地上の待機組からは、気球をたたむ作業者が飛び出してきて、
手際よく気球の後片付けを始めた。
彼らが忙しく働いているわきを、パイロットは仕事を終えて、ゆっくり帰ろうとしている。
引き止めるように走って行って彼女と一緒に写真を撮っている乗客もいる。
乗客全員の大きな拍手で見送られるパイロット。

 

拍手に応えるように振り返って皆に言った。
「私の名前は!」
大きな声で問いかける質問も姿もニクイ。

 

景色のすばらしさだけでなく、パイロットにこんなに楽しませてもらえるなんて。

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着陸後、皆でシャンパンで乾杯をしたが、ほんとうに心から「乾杯したい気分」だった。
みんな彼女のおかげだ。意外な体験の余韻にちょっと酔った。
これまでの回に書いた通り、数回の値切り交渉の末に到達した気球ツアーではあるものの
今回はいいパイロットにあたり、結果としては運がよかったのかもしれない。

 

気球ツアー、日本で事前検討していたときは、実は参加するかどうするかちょっと悩んでいた。
そもそも妻は「高くて怖い」にめっぽう弱い。
さらに、いくら良くてもふたりで3~4万円はちょっと高くないか。
でも、参加した人の感想をブログ等で読むと皆絶賛。
いゃー、思い切って参加してよかった。
料金がふたりで180ユーロ(1万8千円程度)に抑えられたのは偶然の要素もあるけれど、
あの景色とあの気球の動きは体験する価値大。
ちなみに、高いところに弱い妻も、なぜか恐怖感はまったくなかったもよう。
これはほんとうに楽しめる。お薦め。

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ホテルに帰ってきてホテルのテラスで朝食。食事だけでなく空気もうまい。

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トルコはドライフルーツも豊富。これはイチジク。
オムレツもその場で作ってくれるバッフェスタイル。

さあ、次はグリーンツアーだ。

今日はここまで。

 

お別れに、またまた暑さでバテテいる猫を。

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(8) カッパドキア グリーンツアー編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年9月26日 (水)

トルコ旅行記2012 (6) カッパドキア ギョレメ編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(6) カッパドキア ギョレメ編


2012年7月11日

夜行バスは朝7時半頃、ネブシェヒルに到着。
ギョレメに行く人はここで乗り換える、とのことで降ろされる。
世界一周旅行中の日本人女性Yさんと
台湾人バックパッカーもギョレメに行くとのことで一緒に降りる。

降りるとすかさず旅行会社の客引きが数名寄ってきた。
もちろんカッパドキアのツアーの勧誘。
パムッカレで少し話を聞いたため、逆にこちらも交渉のポイントがわかっている。
自力で回ることが難しいものに関しては現地ツアーを利用しようと思っていた。

ギョレメ行きのバスがいつ来るのかわからずヒヤヒヤしているのに、
あちらにオフィスがあるのでそちらに行こう、としつこくうるさい。

 

我々夫婦は二人で一人の客引きを相手にしていたわけだが、その間、
Yさんはもちろん一対一で別の客引きの相手をしていた。
途中「こちらは、**って言っていますよ」と日本語で横の情報交換も。

Yさん、実に冷静。ひとりでもたいしたものだ。
「ほんとうに女性ひとりなのか」と客引きの方が驚いている。
まぁ、その程度でなければここまでの5ヶ月間、一人旅を続けて来ることはできなかっただろう。
結局、我々もYさんも、そこにいた客引きとは契約せず連絡用の名刺だけをもらった。
パムッカレ、ネブシェヒルと交渉を重ねたことでかなりの情報が得られたので、
あとは現地で決着をつけるだけだ。

 

一時間以上待たされたのち、ようやくギョレメ行きのバスが来た。
あと30分ほど乗ればいよいよカッパドキアだ。

途中から、奇岩の景色に変わっていく。
地形が異様なのに、今まさにそこに住んでいる、というのがさらに不思議。
キョロキョロしているうちにギョレメのオトガルに到着。

結果として、クシャダスからギョレメへ、当初の計画と現地で提案されたルート、
それに実際に乗ったバスのルートをまとめておくとこういうことなる。

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ギョレメのオトガル(バスターミナル)でYさんとも台湾人ともお別れ。

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「おふたりとも、いい旅が続き、無事に自国に帰れますように」と祈らずにはいられない。

オトガル前の旅行会社のオフィスにはこちらから出向き、ツアーの最終交渉。
気球ツアーの方は、最終的に90ユーロまで下がったので、ここで決めることにした。
160→110→100→90とこれまでの3箇所での交渉はそれなりに活かせた感じ。
もうひとつ申し込もうとしていたグリーンツアーのほうは、
安いツアーとは寄る場所の数が違う、などと言って、あまり値引きしてもらえなかったが、
ツアーごとに全訪問先を一対一で比較することもできないので、
気球代が大きく下がったことで良しとして、一緒に申し込んだ。
ちなみに、ここでの支払いも気球ツアーはユーロで、グリーンツアーはトルコリラだ。

ホテルにチェックインしたら部屋番号を知らせてくれ、と言われる。
気球ツアーの出迎えが朝4:45と早いので、
朝、その部屋だけをノックするようにするので、とのこと。
契約したからか、ホテル名を言うとホテルに電話して出迎えの車を呼んでくれた。

 

朝10時頃ホテルに到着、チェックイン。
部屋が用意できるのは11時になるが、ホテルの方曰く
「夜行バスで来たのなら、おなかが空いていることでしょう、
 それまで、よかったらホテルの朝食バッフェを召し上がれ」

まさに、空腹状態だったためラッキー!

さらに狭いながら「トイレ+シャワー」の個室を使ってもいいという。
夜行バスでの到着客が多いので、そのあたり設備も含めて慣れている感じ。
夜行で着いた直後の食事とシャワーはほんとうにありがたい。

ホテルで朝食を食べながら部屋の準備が整うのを待つ。

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パンとスープ、薄焼きのパンケーキがうまい。

 

部屋の用意ができたとのこと。こんな部屋だ。

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まさに岩をくり抜いたままの洞窟部屋。
外は暑いのに部屋の石は冷たい。シャワー部分も石をくり抜いたまま。

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シャワーを浴びてひと休み。地図を見ながら今日のプランを検討。
ギョレメ野外博物館とウチヒサルに行くことに決めた。
野外博物館は歩いて。ウチヒサルへは路線バスで。

 

ホテルから出るといきなりこの景色だ。

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ホテル自体、岩山の斜面と岩自体に完全に同化してしまっている。

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村の中を歩いていると、洗濯物を干しているところに遭遇。
さて、問題。右側の洗濯物はどうやって干したのでしょう。

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正解はこれ。

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お母さんの左上の青い滑車。左端で干してはロープを回して動かしていっている。

 

奇岩は街の至る所に。

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途中、郵便局で両替。
貨幣も含めてトルコリラに慣れたことと、空港での「手数料あり?」の疑問もあったので、
少し注意深く確認をした。すると空港での両替時同様やはり計算値より少し少ない。
今日は、行列になっていたわけでもないので、
印刷されたレシートを見せながら「少ない」と訴えると、
言い訳をするでもなく、説明をするでもなく、悪びれるでもなく、
だまって足りない分を足してくれた。
黙っていれば、つまりは担当者のポケットに入ることになるのだろうか。
請求したので受け取ったけれど、200円程度の額、彼が喜ぶならチップとして無視してもいいかも、
という気もしてくる。

私が両替に行っている間、妻がちょっとおもしろそうな陶器店をみつける。
ガラス越しのショウウィンドウに並べられた品々が、
観光客だけを相手にして安物を積み上げているような店とは違い、
かなり期待できる感じ。ちょっと覗いたところお店の感じもいいという。
「あした、みやげ探しも兼ねてゆっくり寄ろう」ということにした。
翌日、このお店では、意外な時間が流れることになる。

ギョレメ博物館まで暑い中を歩く。

どちらの写真も左下に小さく人間が写っているのだが見えるだろうか。クリックしてご覧あれ。

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岩の大きさもさることながら、どうやってあの穴を掘ったのか、
どうやってあの穴に入るのか、という位置に穴がある。

舗装ではなく石畳の道は、車が通るとブルブルとタイヤが鳴ってうるさい。

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【ギョレメ野外博物館】
ギョレメ谷には、5~12世紀にかけて、
迫害から逃れ定住したキリスト教徒が作った岩窟教会が30ほども集まっている。

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外見はご覧の通りの岩山だが、教会の内部は、十字平面になっていたり、丸天井になっていたりと、
狭いながらもなんとか地上の教会をそのまま再現しようとしている。
一千年近くも前、いったいどうやって掘ったのだろう。

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特に内部に残っているフレスコ画は、一見の価値がある。
「暗闇の教会」とまで名付けられた教会もある通り、岩窟、
つまり光による劣化を避けられたことが、画の保存にとっては好都合だったのだろう。
11~13世紀ごろのものとは思えない、かなり色鮮やかなものもあってお見せしたいところだが、
残念ながら大部分は写真撮影禁止。フラッシュによるダメージを避けようとしている。

なお、教会でもあるが住んでいたところでもあるので、食堂なども内部にある。
テーブルはこんな感じ。

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写真撮影が許可されていた教会の内部。

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煤の汚れがそのまま残っているところもある。

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ツアー客も多い一大観光スポットだ。

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カッパドキアは、ご覧の通り、奇景による自然遺産の要素と、
洞窟住居や教会などによる文化遺産の要素があるため、
パムッカレと同様、複合遺産として世界遺産に登録されている。

続いての、ウチヒサルへは路線バスで行くことにした。
乗り場はオトガル(バスターミナル)のインフォメーションで教えてもらった。
30分に一本とのこと。ウチヒサルへ行く事を確認のうえ乗り込んだ。

 

近くの女性に、
「ウチヒサルへ行くか」と再度確認すると、
「行く」という。
「どこで降りればいいのかわからないので、
 降りる時になったら教えて欲しい」と頼むと、
「行く事は間違いないが、どこで降りるのかは私はわからない」
という。
子どもたちが興味深そうに振り返ったりしているので、その時になれば
「まぁ、だれか教えてくれるだろう」と
楽観的に考えてそのまま乗っていることにした。

 

このあたりかな、と思った時、
スカーフをし、暑いのにコートをピシッと着ているムスリムの女性が
「ここですよ」とやさしく教えてくれた。
我々夫婦と彼女の3人がバスを降りる。
ここで聞いておかねば、と思ったのは、
「帰りのバスを乗る場所」と「これからどの道を歩けばいいのか」の二点。
とにかく、多くの場合、明確なバス停を示す標識がないため、
観光客には、どこからならバスに乗れるのかがさっぱりわからない。

英語は全く通じなかったが、何を聞いているのかは、わかってもらえた模様。
バス停の位置は、分りやすい指標が反対車線にあったのですぐにわかった。

すると彼女、バス停の位置だけでなくバスの時間を教えようとしてくれている。
でも数字が英語ででてこない。
こちらだってトルコ語で10までの数字すら言えないし、聞き取れないレベルだから、
双方まさに探りあい状態。
ちょっとの間ののち、彼女は押し出すようにゆっくり「スリー」、「ナイン」と言った。
「15分と45分か!」。

ほとんど同時に、思いついたように腕を伸ばし、コートの長袖の下から左手首の腕時計をだして
念を押すように数字の3と9を指さした。典型的なアナログ時計だ。
こちらの「わかった!」が伝わった瞬間、彼女の顔がふわぁっと明るくなった。
私も妙にうれしくなってしまった。

15が言えなくても3でわかる。アナログはすごい!
3から15にほぼ無意識のうちに自動変換できる世界共通のルールはすごい!
デジタル時計ではこうはいかない。
来る時の「30分に一本」とも辻褄が合う。

歩く方向も一緒に教わり、礼を言って別れた。

暑いのにちゃんとした格好をしている容姿も美しかったが、質問に回答するだけではなく、
我々の気持ちを察して一歩踏み込んで助けてくれようとする心配りに触れるとさらに美しく見える。
写真を撮らせてもらえればよかった、と思いながらウチヒサルを目指す。

 

ウチヒサルは巨大な岩山(いわやま)ながら、近くまで来るとなぜかちっとも見えない。
教えてもらった道は、地元の住宅地の中。
方向が間違っていないことはわかるが、対象が巨大な分、
「入り口へはこの道でいいのだろうか?」

周りの様子も奇観だが、寄って見てみると今も人が住んでいる様子がよくわかる。

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途中出会った村の人に
「ウチヒサルはこっちか?」と聞いてみる。
すると、中年女性にも、こどもにも
「カレのことか?」と聞き返される。
トルコ語の本で調べると「KALE」とは「城」のこと。
そう言えば、前日に訪問したパムッカレ(綿の城)のカレだ。

地元では「ウチヒサル」ではなく「KALE」と呼ばれているようだ。
何度か確認しながらようやく到着。

 

【ウチヒサル】

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ウチヒサルはまさに城と呼ばれるにふさわしい風格。
歩いて頂上まで登ることができる。

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登ると360度の絶景が楽しめる。すばらしい眺めだ。

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カッパドキアが多くの渓谷で構成されていることがよくわかる。

カッパドキアの土壌を作った火山のひとつエルジエス山も遠くに見える。

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帰りは教えてもらったバス停を目指す。針はちょうど45分近くを指していたが、
バスの時間の正確さにはもともと全く期待していなかったので、
遠くにバス停が見えてきてものんびりと歩いていた。

するとぴったり45分に例のバス停の位置をまさにバスが通過しているではないか。
私は思わず駆け出していた。
これまでのトルコでのミニバスの乗り降りを見ていて、
バス停でなくても止まってもらえるような気がしたからだ。

大きく手を振るとあっさり止まって道の途中で乗せてもらえた。ラッキー!
後で聞くと走りだすバスを見て妻は30分待てばいいや、と思っていたらしい。
トルコでバスに乗り始めて三日目、だんだん慣れてきたかもしれない。

 

夕食はオトガルのそばのレストランでカッパドキア名物のテスティ・ケバブを。
素焼きの壺に具材を入れてフタをし、壺ごと火にかけて煮込む。
食べるときは、ハンマーで壺を割って中身をだす。

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中身はこんな感じ。よく煮込まれており肉も柔らかいうえ味がよくしみている。

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トルコ料理の定番、キョフテと呼ばれるミートボール。ナスを使った料理も多い。

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キョフテ右側のピラウは、松の実の入ったシンプルなバターライス。

パンと塩味ヨーグルト「アイラン」も店によって違いがあり楽しめる。

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もちろん味はどれも◎。

 

翌朝は気球ツアーの出迎えが朝4:45にホテルに来る予定。
夜行バスで到着したうえ、よく歩いた一日だったので、ベッドに入った途端爆睡。
朝、ちゃんと迎えが来ますように。

今日はここまで。

 

お別れに、お腹に赤ちゃんのいるお母さん猫を。

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(6) カッパドキア 気球ツアー編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年9月23日 (日)

トルコ旅行記2012 (5) パムッカレ ヒエラポリス編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(5) パムッカレ ヒエラポリス編


2012年7月10日

石灰棚を登った先には、遺跡・ヒエラポリスが広がっていた。

反射してしまいちょっと見にくいが、ヒエラポリス博物館にはこんな図があった。
石灰棚の上に、最盛期にはこんな街があったようだ。
右下から広がる白い部分が石灰棚だ。

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ヒエラポリスは、ローマ帝国の温泉保養地として栄えた都市だが、
その起源は紀元前2世紀のベルガモン王朝にまで遡る。
1世紀のネロ帝、3世紀のカラカラ帝といったローマ皇帝も訪れている。
2、3世紀に全盛期を迎える。
これまた、日本ではまだ大和朝廷前。
ローマ帝国時代にも何度も地震にあっているが、その都度復興を繰り返している。
ところが、1354年の大地震を最後に廃墟に。
日本では室町時代になったころ、足利義満のころに滅びてしまったことになる。

 

【ヒエラポリス博物館】

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ローマ時代の浴場をそのまま博物館として使っている。石組みが精緻かつ重厚で美しい。

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中の展示は主に石棺とレリーフ。

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特に石棺は、目を見張るものだった。
後に見る、ネクロポリス(共同墓地)、
まさに死への入り口として多くの人が棺を持ってきた場所だけのことはある。

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レリーフも様々な種類のものを間近でみることができる。

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建物の外にも棺や柱頭などが数多く続いており、最初のうち、声を上げて感嘆していた驚きの感覚が、だんだん麻痺してくる。

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【温泉プール】
ここはよくある温泉プールではない。
プールの中に本物のギリシャ・ローマ時代の柱や柱頭がゴロゴロしているのだ。
まさに遺跡の上で泳げる例のないプール。
ここにあの石灰棚を作り上げた温泉の源泉がある。

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発泡性のあるお湯らしいが、上から見る分には澄んでいてきれいなお湯だ。

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【ニンファエム神殿(泉水殿)】 4世紀

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【野外劇場】
2世紀。収容人数約1万人。エフェソスの大劇場ほどの規模はないが、ここも保存状態がほんとにいい。
急斜面の客席からは、ステージだけでなく、まわりの雄大な景色も満喫することができる。

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【北大浴場】

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2世紀。大きな連続アーチを持つ典型的なローマ建築。浴場ではあるが、教会として使われていた時期もあった。
その先に、棺が散乱しているエリアがある。

 

【ネクロポリス】

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ギリシャ語のnekropolis(死者の都)を語源とする古代共同墓地だ。

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先ほど見た野外劇場の少し下のほうに、
温泉のガスが吹き出しているプリトニオン(プルトニウム)と呼ばれる洞窟がある。
この、人ひとり入れる程度の小さな洞窟には
 * 悪霊が宿っているとか、
 * (ガスを吸引して)神託を告げられたとか、
 * 動物を伴って入洞し動物だけが死亡、聖職者だけが無事に生還することで「神聖」をアピールしたとか、
 * 病の悪霊を解き放つ神秘信仰の儀式に使ったとか、
「死」に関するさまざまなエピソードが残っている。

冥界(プルトン)に通じていると言われたこの一帯には、死の入り口、死の場所として多くの人が集まって来た。
残っている墓の数は1000基以上。ヘレニズムからビザンチン期まで、
切妻屋根型、アーチ型、2階建て、などなど様々な種類の墓を見ることができる。
長い年月の末、こんなふうに石灰に埋もれてしまった家型墳墓もある。

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当時の人がどの程度「ガス」のことを知っていたかはわからないが、
不思議な洞窟に対する怖れと神聖化とは、ことあるごとに増幅していったのであろう。
「見えないけれどなにかある」
これは根源的な恐怖感のひとつだ。

暑さでもう限界。陽が傾きかける中、また裸足になって石灰棚を降りる。

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ところで、二千年近くも前、石灰棚のほうはどんな状態だったのだろう。
街は14世紀以降風化の一途だろうが、石灰棚のほうは年々成長しているわけだから。

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ちょっと調べた範囲では、石灰棚の成長率がどの程度かがわからなかったが、
少なくともネロ帝が見ていた石灰棚は今とはずいぶん違っていたはずだ。

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パムッカレの村まで戻って、夕食を食べることにした。
とにかく暑くて、よく動いたわりにあまり食欲がない。

街を歩いていると、そのままの名前「パムッカレ」というレストランのオーナから声をかけられる。
東京・新宿でレストランをやっている。10月3日以降は日本にいるので来てくれ、と名刺を渡される。
出発前に偶然、会社の同僚が訪問した話を聞いたレストラン。
名刺を持って、10月3日以降、訪問してみる予定。

結局、軽くしか食べられないけれどそれでもいいか、と念を押して、
マリオブラザーズのマリオのようなひげをたくわえた陽気なトルコ人がやっているレストランに入る。

きゅうりにヨーグルトをかけただけのジャジュクと言われるサラダ。

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さっぱりしていてまさに夏向き。

さて、予定時刻よりもかなり早めに旅行会社のオフィスに戻る。
昼、話をしたお兄さんはもうオフィスにはいなかった。
預けていた荷物を受け取り、デニズリに行かなければならない話をすると、
若い兄さんが、「こっちに来い!」と連れ出してくれる。
昼間、「デニズリのオトガルにまで連れて行って、深夜バスに乗せるから」と
言っていたので、彼が引き継いで送ってくれるのかな、と思ったら大間違い。
彼は、デニズリ行きのミニバスの乗り場を教えてくれただけだった。
まぁ、しかたがない。ちょっと期待し過ぎかも、と思っていたので。

バス停の斜め前にはレストランがあり、こんな看板を出していた。
「吉野家の牛丼より美味い!」
うーん、基準をそこに持ってこられるとどんな味であれ笑って許せる気がする。

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しばらく待っているとミニバスが来た。ところが満席で乗れない。
もともと10数人程度しか乗れないバンみたいなものだから、
満席でもしかたがない感じ。

次を待つ。
ところが、これがなかなか来ない。乗り場を教えてくれた彼も一緒に待ってくれている。
デニズリ発21:00に間に合わなかったらどうするか、とちょっと考え始めたころ、
「来た!」
しかも運良く乗れた、「ふぅ」。

彼は乗り込まず、元気に手を振っている。滑り込みセーフ。
次のバス停でも多くの人が待っていたが、そこからは一人も乗り込めなかった。
少なくとも2本は乗れなかったはずだ。あそこで待っていたらいつ乗れたことだろう。

おそくなったお陰で(?)「ほとんど待ち時間がない」といういいタイミングで
デニズリのオトガルに到着。
ターミナルに行くと、バス会社の係の人が寄ってきて「オフィスに来い」と
4人の客だけをオフィスのほうに誘導した。
なに? なに?
予約表を渡すと、チケットを持って彼が出てきた。なんだ、発券しただけか。

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ところが、受け取ったチケットをよく見ると、出発が22:30になっている。
我々夫婦と一緒に呼ばれた男女のバックパッカーも、22:30に変更になったらしく、
説明を求めている。
「元の予約は21:00だったので、おかしいじゃないか」
「トラブルがあり、21:00の便はなくなった。なので変更した」
でも、だったら呼ばれたのはなぜ我々4人だけなのだろう?

時間ギリギリだったとは言え、トラブルのあったバスに乗ろうとした人は、
もっといたはずだ。もうみんな変更済だったのだろうか?
正体不明の旅行社で予約したので差別されたのだろうか? などと、どうもすっきりしない。
不満顔の我々の空気を察してか、係の人は「ちょっと待ってて」と一言残して、
どこかに消えてしまった。
もちろん二度と戻って来なかったが。

 

係の人が急にいなくなってしまったため
「まっ、しかたないか。待つか」と妻にぽろっと日本語で言うと、
バックパッカーの女性の方が「あれっ、日本の方なんですか?」と驚いたような声。
係の人を中心に、カタコト英語のやり取りになっていたが、チケットの条件ばかりに集中していて、
こちらもバックパッカーの二人が日本人かどうかにはそれまで気が回っていなかった。
聞くと、女性の方は日本人、男性の方は台湾人。
二人は偶然バックパックを背負っているというだけで、一緒に旅行しているわけではなかった。

いろいろあったが、結局のところ昨夜立てた予定通り
デニズリに戻ってきて22:30の夜行バスでカッパドキアに行くことになってしまった。
パムッカレで21:00発に間に合うかどうかヒヤヒヤしたのはいったいナンだったのか。
まぁ、しかたがない。待てばいいだけだし。

 

急にできた1時間半の待ち時間は、先ほど知り合ったバックパッカーの日本人女性Yさんと
我々夫婦の三人で話をしながら過ごした。

Yさん、8ヶ月かけて世界一周旅行をしている途中で、今5ヶ月目とか。
旅行会社に2年勤めた後、「今しかない」と会社をやめて、一人で世界を回り始めたらしい。
メキシコから入り、南米、ヨーロッパと回ってトルコまで来ている。
途中イースター島にも寄っている。
旅行会社時代、チェコに毎年行くお客様がいたらしく、その方の影響でチェコにも。
宿は主にホステルを利用。
姉、弟のいる三人兄弟の真ん中で、お姉さんがベトナムに海外ボランティアに言ったことが、
海外に飛び出すきっかけになったのだとか。

話を聞いていると、我々夫婦の長女Hを思い出すというか、
Hの口から聞いたようなセリフがいくつも飛び出してきて、
おもわず妻と顔を見合わせて微笑んでしまう。

Hもベトナムやケニアにボランティアに行く際、まさに同じようなことを言っていた。
Hといくつも違わないと思われたので聞くと2つ上。まだ25歳だ。

 

話を聞いていると、あるときは、世界に飛び出していろいろ見てみたい、
今しかできないことをしたい、という子の気持ちの側に立っている。
またあるときは、そういう娘を持つ親の気持ちの側に立って、
「ときどきでもいいから、元気でいることだけは伝えてあげて」なんて言っている。
自分はいったいどっちの側で聞いているンだ!?

同じ事を二倍感じられるというか、ふたつの視点から眺められるというか、
子と親の間をフラフラしている不安定な自分の気持ち自体を楽しんでしまう。
歳をとるということは、こどもを育てるということは、
結局はそういうことなのかもしれない。

そうそう、三人で話をしている最中、ターミナルに居たトルコ人が、
「トラブルで21:00のバスがなくなってしまった」と同じ被害にあったことを口にして話しかけてきた。
21:00のバスがなくなってしまった、というのはほんとうなのだろう。
彼は、プラムのような青い実を差し出して食べてみて、と言う。
エリキ(erik)と言っていた。
そのままかじればいい、とのことだったのでちょっとかじってみる。
もっと酸っぱいものかと思ったら、青い色にもかかわらず甘くおいしかった。ごちそうさま。
彼、「立ち話ではなく、あっちに行って話をしよう」と誘ってくる。
気がつくと、やんわりとその誘いを断っていた。
盛り上がっていたYさんとの会話のほうを続けたいと思ったのは、
子の気持ちでも親の気持ちでもない、さらにいたもうひとりの自分だ。

 

夜行バスの時間が近づく。
「乗る前にもう一度お手洗いに行っておく」という妻に
「荷物見ておくから」と言うと
「あっ、私も一緒にいいですか」と彼女。
大きなバックパックを妻のバッグの横に寄せて置く。
「もちろん、どうぞ。一緒にちゃんと見ておくから」

「ありがとうございます。
 ひとりだといつでも全部持って、になっちゃうのでトイレも行きにくくって」と明るい。
「荷物になるので、これでも冬の間に使った防寒具は途中で捨てたりして
 コンパクトにしようとはしているンですけどね」
それでも女性が背負うにはやはり大きい。

こいつもこれまでの5ヶ月間、彼女と共に世界を回ってきたんだな。
使い込まれたバックパックを見ていたら、二人が去って急に静かになった分、
「なに、だまってるンだよ」とバックパックに向かって話しかけたいような気持ちになった。

 

ほぼ定刻にバス到着。
座席下の荷物庫に荷物を預けて乗車。疲れていたこともあり、あっという間に爆睡。
バスは2、3時間ごとにトイレ休憩をとるために、日本の高速のサービスエリアのような場所で小休憩。
学生のころのスキーバスを思い出す。

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深夜の駐車場は大型バスだらけ。降りるとき自分のバスをちゃんと覚えて降りないと戻れなくなってしまう。
このバスにも個人用のモニタはあるが、さすがに深夜便、見ている人はごくわずかしかいない。

朝5時過ぎ、朝焼けが美しい。

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何もない土地の中を高速で進んでいると、急に畑が広がっていたりするところがある。
誰が耕しているのだろう、と見回してもはるか先まで家らしい家がみつからない。
でも、なんだか畑を見るとホッとする。
そう言えば、沢木耕太郎はこんなことを書いていた。

山に緑が多くなり、ほんのわずかな土地にも人の手が入っているのを見かけるようになった。
雲と同じように、耕されている土地というのもまた、
見る者の心をずいぶん和ませてくれるものだった。

    沢木耕太郎 「深夜特急5 -トルコ・ギリシャ・地中海-」

朝7時半頃、ネブシェヒルに到着。

目的地、カッパドキア・ギョレメまではバスを乗り換えてあと30分ほどだ。

今日はここまで。

 

お別れに、ヒエラポリスでお休み中だった猫の親子を。

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(6) カッパドキア ギョレメ編につづく。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

2012年9月20日 (木)

トルコ旅行記2012 (4) パムッカレ 石灰棚編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(4) パムッカレ 石灰棚編


2012年7月10日

クシャダスのホテルのお兄さんのアドバイスに従い、デニズリのオトガル(バスターミナル)に到着した。
次の観光地パムッカレまでミニバスで20分ほどのところまで来ている。

ここで、夜行バスの予約をして、同時に夜まで荷物を預かってもらう、と
バスの予約に向かって歩き始めると、旅行会社の客引きが声をかけてきた。
客引きの良くない話はあちこちで読んでいたので、
最初のうちは警戒心いっぱいで、簡単にやり過ごすつもりだったのだが、
昨夜のホテルのお兄さんのアドバイスが結果的には非常に有効だったこともあり、
「地球の歩き方」を中心にせず、想定外のルートにも耳を傾けてみよう、という気になっていた。

現地での有効な情報やなりゆきを排除して、
「事前に計画したことを計画した通りに実行する」ということだけが
目的になってしまったら、個人旅行をしている意味がない。
とりあえず下の赤いルートでデニズリまで来た。

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我々が今日のルートで改善できるといいな、と思っていた問題点は2点。
* パムッカレからここデニズリのオトガルに再び戻ってこないといけないこと。
* デニズリからカッパドキアへ行くバスが22:30と遅いこと。
    (10時間もかかるので、できるならもう少し早い時間の出発としたい)
彼はこれを見透かしたようなルートとバスを提案してきた。

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もちろん、毎日観光客を相手にしているので、べつにそれは見透かしたわけではなく、
「百も承知」ってことなのだろうけれど、改善されるならそれに越したことはないので、
安全確実の保証はないが、夫婦で軽く相談しリスク覚悟で
「まぁいいか、のってみよう」ということになった。

他の観光客と一緒にミニバスに乗り、パムッカレのそばにある彼の旅行社のオフィスに行く。

中国語だの、日本語だの、いろいろな外国語のポスターが貼ってある。
現地に不案内な外国人旅行客を集中的に狙って客にしていることが一目瞭然。
われわれもいいカモになるのか?

 

ともあれここはトルコ。まずはチャイだ。
さっそくチャイをいただく。暑くても熱いチャイはうまい。
飲みながら提案されたパムッカレ発21:00ギョレメ直行のバスの予約を頼むと、端末操作の後、
予約画面を見せ「今夜の便はもう満席だ」と言う。
次の便は23:30。これなら取れると。デニズリ発なら21:00に空きがあるが、とも。
デニズリに戻り21:00に乗るか、ここパムッカレから23:30に乗るか。
少しでも早いほうがいいので、デニズリ発21:00の予約を頼んだ。

彼の言葉に釣られてここまで来たが、結局当初の予定通り、デニズリに戻ることになってしまった。
時間が一時間半ほど早くなったのでまぁいいこととしよう。

すると、予想通り明日以降の訪問先、カッパドキアでのツアーも売り込んできた。
従兄弟(いとこ)がカッパドキアでツアー会社をやっていると言う。
信用させようと思ってか、いとこの会社が主催したツアーの記念写真のアルバムを自慢げに見せる。
もちろんツアー客は全員満面の笑み。
「こいつがいとこだ」と写真の中のひとりの男性を指差すので、
「あなたに似ているじゃないか」とたいして顔も見ずに流れにまかせてコメントすると
「実は彼の母親は離婚していて...」と込み入った親族の事情を細かく語りだしてしまった。
そういう事情なので似ているはずはない、と言いたいらしい。
オヒオヒ、そんなこと聞いていないし、ゼンゼン関心ないよ。
でも、丁寧に身内の話をする彼の話を聞きていたら、
なぜか「この人、悪い人じゃないかも」と思ってしまった。

 

カッパドキア観光の目玉のひとつ、熱気球によるバルーンツアーも、
現地旅行会社のホームページを開き、
「ほら、ここでダイレクトに予約すると160ユーロもする」
それを
「110ユーロにする。二人で100ユーロも節約になるんだからすごくお得だ」と
積極的にアピール。
日本のツアー会社で事前予約すると1万5千円から2万円くらいであることは知っていたので、
160ユーロという最初の提示もまぁ予想の範囲内。
「100ユーロ(約1万円)安くなる」にはちょっと心が動く。
このツアーはなぜかどこで話をしても徹底してユーロが使われている。

 

とにかく、相手はこちらが「地球の歩き方」など何冊かの日本語のガイドブックの情報を元に
交渉してくることをかなり詳細な部分まで含めて完全に把握している。
他のツアーに関しても、
「ここにはこう書いてある」と言うと、
(もちろん読めはしないだろうけれど、内容についてはよく知っていて)
「それは2年前の話だ」
「信じられないなら、この電話を使っていいから、その本に書いてある旅行社に
 今、電話をかけて、現在の内容と値段を聞いてみるといい」
と受話器を差し出してくる。
「この本を書いた**さんは私の知り合いだし」
などなど自分のペースに巻き込むことが実にうまい。

 

話を聞く中で、自力で回ることがむつかしいところはどこか、それはなぜか、
など料金だけでなく距離等の情報も得られたことは、
今後の交渉ポイントとして使えるためこちらとしては予想外の収穫だった。

最終的に予約したのは最初に話をしたバスのみ。おいしい客ではなかったものの、
「20:00までに戻って来い。
 わたしがデニズリのオトガルにまで連れて行って、深夜バスに乗せるから」
と親切に言ってくれた。ほんとうか?

荷物のほうは、夜まで事務所で預かってもらえることになったので、身軽になった。
パムッカレ観光にはそこから歩いて出発。

 

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少し歩くと、真っ白な石灰棚の丘が見えてきた。
視覚的には雪山のようだが、35度は越えていると思われる気温が、強烈にその言葉を否定してくる。

よく見ると、まさに蟻の行列のように隙間なく観光客が歩いている様子が下から見える。
写真上部、黒い点線は人の列だ。

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列を成している観光客はすごい数だと思うのだが、
なぜか、入り口手前の土産物屋や食事処が並ぶ小さな村には、
びっくりするほど観光客が少ない。
大型バスで入り口までやってきて、そのままバスで帰っていく、ということなのだろうか。

まずは、昼食。ローカルな感じの店を選んで入った。

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薄く焼いた生地を細かく切ったもののほか、下にはご飯まで入っている。
ヨーグルトがたっぷりかかっているトルコ料理はほんとうに種類が多い。

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こちらは、中に挽肉、チーズ、トマトなどが入っている。
どちらも味は◎。

お店は田舎のレストランという感じでのんびりしている。

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会計まえ、レストランで手洗いを借りたところ、手を洗う水が一滴もでない。
「水が出ない」というと、店のお兄さん、冷蔵庫を開け2Lのペットボトルの水を出してきた。
「そうじゃない、手を洗う水だ」と言うと
「わかっている。手を出して」
彼、なんと差し出した私の手に、冷たいペットボトルの水をかけはじめた。
手を洗う水すらでないところで、ペットボトルの水で手を洗っている。
このギャップはなんなのだ。

 

パムッカレには大きく分けると二つの観光要素がある。
ひとつは、不思議な景観を作り出している巨大な石灰棚、
そしてもうひとつは、石灰棚の上に広がる古代遺跡ヒエラポリス。

ここは石灰棚ができるような石灰分を多く含んだ温泉が湧き出ていたので、
ローマ帝国のころから温泉保養地として栄えてきた。
石灰棚という奇景による自然遺産、ヒエラポリスという文化遺産、により
世界遺産には複合遺産として登録されている。

ところで、パムッカレとは、綿(パムック)の城(カレ)という意味。
石灰棚が綿のように見えるからか、とつい思ってしまうが、
実は付近が古くから綿花の産地だったから、がその理由らしい。

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石灰棚を登り始める。
棚を保護するため、全員靴を脱いで裸足にならなければならない。
ここで全員靴を脱ぐ。左側が土、右側が石灰棚の一部だ。

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石灰棚は硬いうえに独特なざらつき感があり、意外にすべりにくい。

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温泉水が流れている上を裸足で歩いているわりに転倒事故を見かけないのも、
このすべりにくさがその理由なのだろう。
温泉は約35度とのことであるが、生ぬるい感じが、温泉によるものなのか、
水が暑さで温まったものなのか区別ができない。

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水の溜まっている部分のみ、底に沈殿物があり少しヌルッとする程度で
あとは一歩一歩硬質な刺激が続く。

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それにしても裸足の足に直接刺激があるというのは気持ちがいいものだ。
足の裏だけが元気になっていくような気がする。
世界遺産をまさに足で体感できる。

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裸足になるばかりでなく完全に水着になっている人も多くいる。

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石灰棚の白、温泉水の独特な青、そしてその向こうに広がる乾いた大地。
とにかく不思議な光景だ。

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最近はかなり枯渇してきてしまっているため貴重な温泉水を石灰棚のどの部分に流すかは、
人為的にコントロールしているらしいが、
温泉水が流れているからこそ、白さも輝きもいきいきとしてくることが、
乾いてしまっている部分と見比べるとよくわかる。

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水の力は偉大であり、また、どんなものであれ、
成長しているその瞬間には、独特な輝きがあり美しい。

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登り詰めると、そこにはいきなり遺跡が広がっていた。ヒエラポリスだ。
上にある温泉プールから下の石灰棚をめざして水着のまま歩いて来る人もいるため、
遺跡でも水着の人とすれ違う。遺跡と水着と山、日本では考えられない変な組合せだ。

と、今日はここまで。

 

お別れに、色は黒一色なのに一番眩しかった水着を。

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(5)パムッカレ ヒエラポリス編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

2012年9月13日 (木)

トルコ旅行記2012 (3) シリンジ村編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(3) シリンジ村編


2012年7月9日

エフェソス遺跡に続き次の目的地、シリンジ村に向かう。
思ったよりも山奥で、細い山道をぐんぐん上っていく。

小さな村に着いた。

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赤い屋根と白い壁、シリンジ村はオスマン伝統の家並みが残る小さな村だ。

この村の歴史を語るうえで「住民交換」という言葉を避けて通ることはできない。
この村にもともと住んでいたギリシャ人は、住民交換により村を追われギリシャ・テッサロニキに再定住。
代わりにテッサロニキに住んでいたトルコ人がここに住むようになったのだ。
1924年のこと。まだ百年も経っていない。

住民交換とはいったい何か。

トルコはギリシャとの希土戦争で勝利。
その後、「ローザンヌ条約」(1923年)に基づき、
トルコとギリシャとの間で大規模な住民の交換が行われることになった。
「ローザンヌ条約」はトルコ共和国がオスマン帝国に代わる主権国家として
国際的に認知されるようになった条約で、日本も調印7カ国のうちのひとつになっている。

住民交換とは、簡単に言うと「双方の領土内にいる非自国民を交換する」ということだが、
この時の規模はトルコからギリシャに移住したギリシャ正教徒が約100万人、
ギリシャからトルコに移住したイスラム教徒が約50万人。
人数は資料によって多少のバラつきがあるものの、単位としてはほぼこの程度。ものすごい数だ。

なぜこんなことが、どうしてこんなにたくさんの国民が混在することになったのか。

領土の増減を繰り返してきた歴史とそれを統治していく政策にその理由がある。
オスマン帝国は領土を拡大するたびに、自国のムスリム集団を新領地に入植させてきた。
「スルギュン」と呼ばれる強制移住は、新領地を統治していくひとつの方法だ。

しかし、領地は拡大するだけではない。奪われて縮小することもある。
そうなれば逆に、その土地にスルギュンによって強制移住させた自国の民が残ってしまうことになる。
その時、場合によっては両国または周辺国との関係において再度の強制移住が行われることもある。
その繰り返しが複雑な混在を生んでいった。

トルコの南、キプロス島のように、混在が分断を生んで、
国連の引いた緩衝地帯(グリーンライン)を挟んで、
トルコ系住民とギリシャ系住民が別れて暮らしている国もある。
分断されたのは1974年。二千年前の話ではなく、まだまだ今の話だ。

さて、ここシリンジ村。
村は残り、人は入れ替わった。家並みは何を見てきたのだろうか。

 

村に到着後、まずは昼食を、と大衆的な食堂に入った。

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中学生くらいの男の子が、よく働いている。
店の隅では、おばさんが手際よくギョズレメを焼いている。

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この村に限らず、トルコではほんとうによく見る光景だ。

さて事実上、外で食べる初めてのトルコ料理。
まずは飲み物。
アイランと呼ばれるトルコ独特のヨーグルトを頼んでみた。

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薄い塩味。「えっ、塩味?」と思うが、暑かったこともあり、ふたりともたいへん気に入り
このあともあちこちでよく飲んだ。 甘いものよりむしろおいしい。


チョップ・シシ。 シシ・ケバブのシシも同じだが、シシとは串という意味。

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トマトベースのスープ。酸味が効いているもののわりと味が濃い。

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おばさんの焼いてくれたギョズレメ。

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間にチーズや野菜や挽肉などが入ったクレープというか、トルコ版薄型お好み焼きというか。
どれも、これもほんとうに安くて美味しかった。

さて、村の様子。
小さな山あいの村ではあるものの、観光地化してしまっていて、表通りは土産物屋だらけだ。
香辛料も果物も衣料も見た目がカラフルで、じっと座って店番をしているおばあちゃんたちも
人のよさそうな人ばかりであるが、土産物自体にどうも惹きつけられない。

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ひと通り表通りを歩いたのちは、ちょっと村の中に入ってみることにした。

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こんな道を登っていくと、人々の生活に触れることができる。

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窓からは、人の話し声も聞こえてくる。

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不衛生な感じはないが、とにかく多くの家がかなり傷んでいる。
そう言えばガイドブックの欄外にはこう書いてあった。
「シリンジェは、ギリシア人が住んでいた頃はチルキンジェ(汚い)という名前だったが、
 後に知事の命令で『かわいい』という意味のシリンジェ村へ改称された」

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それでも、どこもこの状態で人々が普通に住んで生活している。

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どういう状態になったら直すのか、
どういう状態になったらメンテナンスするのか、
何にお金をかけるのか、という基準が日本とは違うということなのだろうか。

「荒城の月」の歌の美しさに魅了されて日本に来てみたけれど、
実際には、城址かコンクリートの城ばかりで、日本に荒城なんてないじゃないか、と
書いていた外国人のエッセイを思い出した。

あいかわらずネコをよく見かける。犬も暑さでぐったり。

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今回、時間の都合でサフランボルを観光ルートから抜いてしまったが、
シリンジは第二のサフランボルと呼ばれるくらいだから、
サフランボルもこんな感じなのだろうか。
傷んだ家が多い中、パラボラアンテナが目立っている。

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ゆっくり見学したのち車に戻る。
運転手にはエフェソスとシリンジで計6時間くらいは待ってもらったことになる。
「待たせることを気にすることはない」
と最初に言われたが、暑い中よく待ってくれたな、と素直に思う。
車にエアコンはあるにはあるが、我々が乗っている時間以外は全く使っていない。
窓をあけているだけ。
多少チップをはずもうか、と思いながら帰途につく。

 

さて、ホテル到着前に(1)出発編に書いたことをちょっと繰り返しておこう。
タクシーの料金交渉についてだ。

  実は、簡単に折り合いがついたのには理由があったのだが、
  「交渉成立」と思ったこの時点ではそれに気づいていなかった。
  と言うか、「トルコならではの」かなり重要なことを聞き落としていた。
  値段交渉で「ここ」を聞き落とすと言うのは、後から考えるとありえないように思うが、
  その時は思い込みもあり、まったく聞こえていなかった。
  「ここ」とは何か。
  支払う時になって、ひとつ勉強することになる。

 

無事ホテルまで戻ってきた。
チップを添えて払おうとすると、チップに喜んでくれるとおもいきや、額が違うと不満顔。
「えっ?!、どういうこと?」
再度確認すると、数字は同じだが、元々の合意額は単位がTL(トルコリラ)ではなくユーロだと言うのだ。
街では「2トルコリラ=1ユーロ」を一般的な換算率として使っていたので、
トルコリラで考えていたこちらの額に対して簡単に言えば「倍額」を請求してきたわけだ。
それでも総額で数千円程度なので、移動距離と拘束時間を考えると
日本的な感覚では高いわけではないのだが「認識していた額に対して倍」に驚いてしまった。

単にボられているのか、
最初の交渉時からユーロだったのをこちらが聞き逃していたのか?
そもそも車に乗った直後にも料金の確認はしている。
しかし、思い出そうとするものの、数字の部分にしか注意を払っておらず単位の記憶がほとんどない。
「ユーロと言っていたじゃないか」と言われると、
「ユーロ」の音が耳に残っているような気もしてくる。
「絶対に聞き間違えてはいない。あの時はトルコリラだった」と言い切れる自信がない。
結局納得してユーロで払った。

その後、
* トルコでは、特に観光地ではトルコリラ、ユーロ、米ドルの三種が混在したまま使われていること、
* 最初にタクシーを提案してきたホテルのお兄さんに、
   帰ってきたあと再度値段のことを聞くと、「最初からユーロで話をしていた」とあっさり答えたこと、
* ヨーロッパからの船が多いクシャダスでは、ユーロによる料金表示もかなり見かけること、
* クシャダスの街中で見かける観光タクシーの相場もユーロ表示で、
   エフェソス観光などの典型的ルートとの比較から、請求された額はほぼ相場並だったこと、
などを知り、単位「ユーロ」を聞き逃していたらしいことは状況証拠的に確認できた。
それにしても一つの国にいてお金の話をする時に、普通、単位を気にするだろうか?
まぁ、これも勉強だ。

むしろ初日にガツンと勉強させてもらえて、よかったとさえ言える。
旅行中は、その後も何度も値段交渉をすることになるが、
その都度トルコリラ、ユーロ、米ドルをしつこく確認するようになったからだ。
特にクレジットカードの支払い時は要注意。レシートでは、数字だけでなく単位も含めて確認が必要だ。
ホテルの宿泊代はユーロなのに、同じホテルでの食事代の精算はトルコリラ、
というホテルもあり、実際かなりの混在度だった。

 

ホテルでひと休みしたのち、クシャダスの街に出かけた。
ヨーロッパからのエーゲ海クルーズの大きな客船が寄港している港町。
観光客も多く、同じような土産物屋がならび「日本人か?」の呼び込みも多い。
物は溢れており、色も刺激的だけれど、ここでも土産物自体にイマイチ魅力がない。

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今後、ケバブなど肉系の食事が多くなるだろうから、ということで、
夜は魚を食べることにした。
港町、新鮮な魚があふれている。

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ショウケースで魚を選び、料理してもらうというスタイルのお店を選んだ。
ずらりと並んだ中からシーバスとエビを指定。

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景色のいい海辺のテラスで、風に吹かれてエーゲ海の夕日を眺めながら、選んだ魚が調理されるのを待つ気分は最高だ!

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おしゃれなテラス席なのに、水はなぜかペットボトルのまま運ばれてきた。パンは期待通りおいしい。
暑さでヘトヘトになった体にビール「エフェス」がしみる。

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エビの味が焼き具合も含めて絶品だった。

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素材の新鮮さと味の良さが焼き具合で引き立つことがよくわかる。

テーブルから眺めるエーゲ海がどんどん夕日に染まっていく。

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夕食後、ホテルに戻り翌日の行程の作戦会議。

翌日は、クシャダスを発ち、パムッカレを観光、夜行バスでカッパドキア・ギョレメに向かう。
ギョレメまで6本のバスを乗り継ぐ。概略を絵に書くとこんな感じ。

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この計画を、少し親しくなったホテルのお兄さんにすると、
デニズリまでは、クシャダスのオトガル経由のほうがいいと言う。

2

言っていることはわかるが、この「クシャダスのオトガル」というのが日本のガイドブックには一切載っておらず、
いったいどこにあるのかが全くわからない。
WiFiが使えることをフル活用してiPod Touchで妻が検索。
トルコ語のページしかなく、「トルコ語 指さし会話帳」を辞書代わりにして、
なんとか情報を得ようとするが、わからないことも多く何度も質問に行く。

多少非効率で遠回りかもしれないが日本のガイドブックに載っている確実なルートを選ぶか、
場所や便数など不明かつ不確実な要素があるものの、ホテルのお兄さんの言葉に従って、
より最短と思われるルートを選ぶか。

結局、丁寧に我々の質問に対応してくれた誠実なお兄さんを信じてみよう、ということになった。
一時的に、自分がどこにいるのか全くわからない、という状況になってしまうが、
移動は昼間だし時間的に多少余裕もあるし、なんとかなるだろう。

夜、礼拝を呼びかける「アザーン」の音が街なかに響き渡る。
「神は偉大なり」という言葉の繰り返しで始まっているらしい。
時間は短いが音量的にはかなり大きく、初めて聞くとびっくりする。
「イスラムの国に来たんだ」を改めて痛感する。

 

2012年7月10日

朝食は焼き立てのギョズレメ。写真の丸いボールはチーズ。ちょっと辛いチリがまぶしてある。

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雰囲気のあるキャラバンサライも一泊のみ。ちょっと別れがたい。

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中庭を取り囲むように客室がある。建物の大きさからは考えられないが、全部で二十数室しかない。

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チェックアウト後、昨夜お兄さんに教えてもらったルートに挑戦。
港には大きな客船が停泊している。

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ホテルの目の前から、ドルムシュ(ミニバス)に乗車。
ドルムシュを降りてオトガル(バスターミナル)に行く道も、
ドルムシュのほかの乗客が丁寧に教えてくれた。

デニズリへの長距離バスに乗り換えるクシャダスのオトガルに無事到着。
バス会社のオフィスが並んでいる。同じ行き先でも、会社によって少し値段が違う。
時刻表や価格表といったものがほとんど貼りだされておらず、個別に窓口で聞かないとわからないことが多い。
長距離バスが日本のバスターミナルと同じように、行き先を前に表示してずらりと並んでいる。

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通りを渡った一角には、ドルムシュ、ミニバスのターミナルが。
ここのオトガルはかなり整然としていてわかりやすい。

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長距離バスに乗る前に手洗いに寄り、大きな方を覗くとこんな感じで紙がなかった。

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水と小さな手オケのみ。
トライしたことはないが、びしょびしょになりそう。ホテルで済ましてきてよかった。
妻の話によると、女性用には「紙がない」ということはなかったようだ。

初めての長距離バス。
バスは、飛行機の席のように、座席ごとのテレビモニタまである。

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途中、イケメンのお兄さんがスナックを振舞ってくれる。

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アナトリア高原の乾いた土地や、途中通過する小さな街の景色を楽しんでいる間に、
デニズリに到着。約3時間半。

結果的に、ホテルのお兄さんに教えてもらったルートは完璧で、
時間的にも、体力的にも、経済的にも、最もいいパターンで
目的地デニズリに到達することができた。
クシャダスからデニズリへのルートの理想的なパターンとして、
「地球の歩き方」に投稿したいくらい。
信じてよかった。

当たり前といえば当たり前だが、「地球の歩き方」に書いてある情報は
交通網のごくごく一部で、それ以外のルートや最善手はいくらでもあるのだ。

 

次の観光地パムッカレまでは、ここでミニバスに乗り換えてあと20分ほどだ。

デニズリに到着し、バスを降りると旅行会社の客引きが声をかけてきた。
こちらはそれなりに予定を立てていたし、客引きの良くない話もあちこちで読んでいたので、
最初のうちは警戒心いっぱいで適当にやり過ごすつもりだった。
ところが話を聞いているうち、信じてのってもいいか、という気になってきた。
まぁ、なにかあったらその時だ。

我々夫婦は、その客引きのお兄さんに付いて行ってしまう。

今日はここまで。お別れにクシャダスの猫を一匹。

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(4)パムッカレ 石灰棚編に続く。 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

2012年9月12日 (水)

トルコ旅行記2012 (2) エフェソス遺跡編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(2) エフェソス遺跡編


2012年7月9日

さて、値段交渉が思ったよりあっさりとうまくいったので、
「エフェソス遺跡」と「シリンジ村」の観光にはタクシーを使うことにした。

エフェソス(Ephesos)というのは古代ギリシャ語読みで、
現在はトルコ語でエフェスと呼ばれているらしいが、
この記ではエフェソスの方を使うことにする。
トルコの代表的ビール「エフェス」もこの名前からとったものだ。

エフェソス遺跡を見学するには、南口から入り、
メインの道をゆるやかに下りながら北口に向けて縦断する、というルートが
最も効率がいいのだが、ミニバスを使うと北口へのアクセスしかないため、
「北口から入って遺跡内を往復し、北口から出る」という方法しかなくなってしまう。
今回はタクシーを使うことにしたため、
南口で降ろしてもらい北口に回って待っていてもらう、という、
まさにツアー客のような効率的な動きが可能となった。

もちろん最初は、遺跡内を一往復してゆっくり観ようと思っていた。
ところが実際に歩いてみると、片道ですんだのはかなり助かった、というのが正直な感想。
距離自体は苦になるような距離ではないし、
往復して二度見たくらいで見きれるようなボリュームの遺跡ではぜんぜんないのだが、
確実に35度以上はあると思われる気温と日陰のない強烈な日差しの中を、
3時間以上も夢中で歩き続けたことで、暑さでかなり消耗してしまったのだ。

遺跡内は、まさに遺跡だけで観光客用のベンチや日除け等は一切ない。
もちろんそんなものを作るべきではないけれど、真夏の観光は暑さへの覚悟が必要だ。

クシャダスから車で約30分。エフェス遺跡の南口で降ろしてもらった。

さて、遺跡の話を始める前に、だいたいの年代だけは確認しておきたい。
エフェソスは、15世紀半ばに廃墟となってしまったが、
廃墟となる前の繁栄の歴史は二千年以上にもなる。
今回見るものは、そのうち2世紀前後に深く関連したものが多い。

そのころの日本は?
小中学校の教室の後ろに貼ってあった日本史年表を思い出してみよう。
金印などの文字がポツンポツンとあるくらいで、まだ空白が多く、
そこには稲作やら古墳やらの絵が書いてあるようなころだ。
大和朝廷成立以前、漢字も伝わってきていない。

そんな大昔、この地には、アレキサンダー大王、クレオパトラとアントニウス、
聖母マリア、聖パウロなども訪れていたと言われると、歴史オンチでも想像が楽しくなる。
1世紀、聖パウロはこの地でキリスト教の伝道に従事していた。
新約聖書の【エペソ人への手紙】のエペソとはまさにここエフェソスだ。

エフェソス遺跡は、世界最大級の大規模な古代都市遺跡と言われているだけあって、
行ってみるとその壮大さに驚く。見どころ満載。
ゆっくり見て回るといくら時間があっても足りない。
世界の古代七不思議のひとつ、あのアテネ・パルテノン神殿の三倍もあったという
総大理石の壮麗なアルテミス神殿の跡も近くにある。

南口から入ると、石組みの遺跡が遥か先まで広がっていることが見える。
日差しと遺跡がまぶしい。
ツアー客も各国から来ており、ガイドに従っていくつもの小集団が動いている。
風にのって聞こえてくる言語も多彩。
我々はガイドブック片手にマイペースで観て回る。

ひとつだけでも十分観光客を呼べるような遺跡が、
大理石でつくられた古代の通りに沿ってずらりと並んでいる。
劇場や神殿や浴場などに囲まれた遺跡空間のど真ん中で
最も栄えていたころはいったいどんな街だったのだろう、と往時に思いを馳せる楽しさは、
まさに訪問した者のみが味わえる贅沢なものだ。

この「規模感」こそが、この遺跡で一番伝えたいことなのだが、
それは、パノラマ写真にすれば伝わる、というような簡単なものではないので、
本記では個別の紹介に留まらせていただく。

以下のようなものが次々と目の前に現れる驚きを、少しでも感じていただければうれしい。

南口から入って最初に目につくのは、

【ヴァリウスの浴場】

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2世紀。床下暖房方式を採用していた典型的なローマ風呂。

 

遺跡の上の小さな日陰、猫が暑さでバテテいる。

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この先トルコ国内ではほんとうに多くの猫を見ることになるが、
これが記念すべき最初に出逢った猫。

 

その先に【バシリカ】が広がる。

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1世紀ごろのもの。金融取引や裁判に使われていたという列柱建築の柱が残っている。
奥には【音楽堂オデイオン】が見える。


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【バシリカ】の柱を見上げると、
コリント式とイオニア式という建築の本でよくみる柱頭の実物を見ることもできる。

 

【音楽堂オデイオン】

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収容人数1400人。代表者会議やコンサートが開かれた。もとは屋根がついていたらしい。

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座席階段の縁にはライオンの足が刻まれている。

 

 

【市庁舎】

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この写真では列柱の高さが実際のイメージとかなり違うので、
このおふたりにもう少し柱のそばに寄ってもらおう。

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かつてはここに消えることのない聖火が灯されていた。
聖火を守る仕事は、選ばれた市民のみに許された要職だった。

 

【ドミティアヌス神殿】

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1世紀のドミティアヌス帝に捧げられた神殿。
帝が暗殺されたあと、神殿は取り壊され現在は土台部分だけが残っている。

 

【ポリオの泉】

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1世紀。建物は商店として使われていて、広場は重要な商業センターだった。

 

【勝利の女神ニケのレリーフ】

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女神ニケはNIKE。
米国のスポーツ用品メーカ「ナイキ」のロゴは、この彫像をモチーフにしている。
もとはこの先にあるヘラクレス門のアーチとして飾られていたものらしい。

 

【メミウスの記念墓】

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メミウスはローマの独裁官スッラの孫。碑にはスッラを称賛する言葉が記されている。

 

<台座・石組み>

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さまざまな組みの跡が各所に散乱している。

 

【ヘラクレスの門】

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4世紀に他所から運ばれて建てられた。
ヘラクレスがライオンの皮を持った姿が彫られている。
35度以上の気温の中、コートまで着ているムスリムの女性たちの服装にも注目してほしい。
ここで皆がカメラを構えているのは、その先にこの景色が広がっているから。

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大理石で舗装されたクレテス通りの先には、ケルスス図書館が見える。

 

【クレテス通り】

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ヘラクレスの門とケルスス図書館とを結ぶ緩やかな坂道。

 

 

【トラヤヌスの泉】

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2世紀。皇帝トラヤヌスに捧げられた泉。
当時は正面にため池があり、そこに据えられた皇帝像の足もとからは水が流れていた。

 

【ハドリアヌス神殿】

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2世紀。彫刻が美しい。コリント式の石柱がレリーフを施した半円形のアーチを支えている。
奥の門には、両手を広げたメドゥーサが彫られている。

 

【スコラスティカの浴場】

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4世紀。大地震で破壊された大衆浴場をスコラスティカという女性が大改修し再建した。

 

 

【公衆トイレ】

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1世紀。大理石の便座、下を水が流れている水洗式! 
トイレ前の中央の台座では音楽演奏もあったというがほんとうだろうか。

 

【高級住宅群】

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手前の通路は美しいモザイクで飾られている。

 

【丘の上の住宅】
住宅跡全体が大きな屋根で覆われ保護されている。
ここの見学は別料金だが、払ってでも見る価値は十分ある。

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丘の斜面を活かした集合住宅。残っているフレスコ画とモザイクがすばらしい。

 

<丘の上の住宅の床のモザイク>

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絵ではなくモザイク。クリックしてご確認あれ。

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どのモザイクも壁ではなく床に施されている。
上流階級の人々の住まいとはいえ、劇場や浴場といった公共施設とは違って
「私的生活」の要素が入ってくることが新鮮。
それにしてもいったいどんな生活をしていたのだろう。

 

 

【ケルスス図書館】

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2世紀。エフェソスを代表する遺跡。ケルススの息子が父の墓の上に築いた図書館。
近くで見るとその壮麗さに圧倒される。
一階部分には、英知、徳性、思慮、学術を意味する4つの女性像が立っているが、
オリジナルはウィーンの博物館にあり、ここにあるのはコピー。
だからと言ってウィーンに行って像だけを見ても、
それらが存在していたここの空気感を想像することはできないだろう。

ケルスス図書館の通りを挟んだ向かい側には【娼館】跡がある。
娼館前の大理石には、
世界最古の広告とも言われる「娼婦の館を示す絵」が彫られているとのことで、
どんなものか楽しみにしていたのだが、
その日は運悪く広告のあるマーブル通りの方向には立ち入ることができず、
実物を見ることができなかった。土産物屋で買った絵葉書の写真を載せておく。

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娼館の方向を示す左足、その右に冠を頭にのせた女性、その下にお札、
またこの絵葉書の範囲には写っていないが、足の左上にはハートも描かれているらしい。

広告というより落書き、という気もするが、4つの絵には
「この足より小さい足の人は娼館を利用できません」とか
「女王様のような人が待っています」とか
「お金を持っておいで」とか
「心を込めてサービスします」とか
いろいろな説があるようだ。
まぁ、いずれにせよなにが正しいか、と言うよりも
あれこれ考えて楽しもう、というレベルのアイテムだろう。

 

そうそう、もうひとつ。
娼館と通りを渡った反対側の図書館とは地下ルートで繋がっていたらしい。
男たちは何をしに図書館に通っていたのだか。
イギリスでも、かつて国会議事堂近くに娼館があり、
採決のための議員定数を満たすために娼館に議員を探しに行ったとか、
採決のために議事堂に戻る時間を知らせるベルがあったとか、そんな話をきいたことがある。

一見オカタイ建物と娼館はスキャンダルも含めていろいろ物語になりやすいということか。
娼館は通りの角に位置し、図書館の正面であると同時に、
先ほどの高級住宅群【丘の上の住宅】の正面でもある。

 

【ミトリダテスの門】

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図書館横。
マゼウスとミトリダテスは、アウグストゥス帝の解放奴隷で、帝への感謝の徴としてこれを建てた。

 

【野外劇場】

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1~2世紀。収容人数2万4000人。大観客席は直径154m、高さ38m。
丘の斜面を上手に使っていることがよくわかる。大きすぎて写真に収めようがない。

 

【アルカディアン通り】

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野外劇場からまっすぐに伸びている。かつてはその先に海があった。
通り沿いには商店がならび、列柱には街灯が灯されていたという。
街灯の灯った通りをクレオパトラとアントニウスが歩いている、
そう思えるだけでここに来た甲斐があるというものだ。

アルカディアン通りから、脇道にそれて北口を目指す。
土産物屋の多い北口で運転手は待ってくれていた。

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今日はここまで。


お別れに北口付近の猫を一匹。

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(3) シリンジ村編につづく。  (旅行記の目次はこちら

 

 

 

2012年9月 8日 (土)

トルコ旅行記2012 (1) 出発編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら

 

唐突だが「くしゃみ」の話から始めたい。

近くにいる人がくしゃみをした時、それに反応してなにか言うことがあるだろうか?
親しい関係だと「風邪ひいた?」くらいは言うことがあるかもしれない。
本人が小さく「失礼」と言うこともあるかもしれない。
でも、日本ではそれがきっかけで言葉が往復することはほとんどない。

一方、米国でくしゃみをするとどこからか必ず「Bless you!」という声が聞こえてくる。
「おだいじに」というような軽いニュアンスだと思うが、反射的にでる言葉のようで
くしゃみをした人が知人かどうかはあまり関係がない。
言われたほうもその場で「Thank you.」
くしゃみ、Bless you!、Thank you.
お決まりの挨拶のようなものだが、小さな言葉の往復だ。

ふっと空気が抜けるように一瞬緊張感が緩むこのやりとり、
なかなかいいな、と思っていたのだが、
高橋由佳利さんの「トルコで私も考えた」
を読んでいたら、こんな記述が出てきた。

トルコでは誰かがくしゃみをすると近くにいる人が
「チョク・ヤシャ」(長生きしてください)と言う。
言われたほうは礼儀として
「セン・デ・ギョル」(それを見るくらいあなたも生きてください)
と返すことになっている。

     高橋由佳利 「トルコで私も考えた(1)」

おもしろい。
Bless you! よりもかなり気が利いている。
すっかり気に入ってしまった私は、「チョク・ヤシャ」と言われたら、
すぐに「セン・デ・ギョル」と返せるよう、まずはこの言葉を覚えることにした。

「セン・デ・ギョル」
「セン・デ・ギョル」

よし、これでいつでもOKだ。
私はくしゃみも大きいほうなので、「やっちゃった」と思ったら
すぐに耳をそばだてて「チョク・ヤシャ」を待とう。
聞こえたらすかさず「セン・デ・ギョル」だ!

「最初に覚えるトルコ語がコレでいいのか」という気もするが、
ちょっとサプライズがあったほうが楽しいじゃないか。

とまぁ、こんなことからトルコ旅行の準備を開始した。
そう、今年は夫婦でトルコ旅行をすることにしたのだ。

 

私が勤める会社には、5年に一度、リフレッシュ休暇という名前で
まとまった休みが取れる制度がある。今年はその年。
休みを利用して、これまで
5年前は「娘二人を含む家族4人+妻の両親」の6人でドイツ、スイス、フランス
10年前は「家族4人+私の両親」の6人でイタリア、フランス
と大人数での旅行を続けてきたが、娘もふたりとも大きくなり、
今回は妻と二人きりで、の旅行となった。

どこにいくか、どうやっていくか、ツアーも含めていろいろ検討したが、
最終的には、フライトからホテルまで、ひとつひとつ選んでの完全個人旅行に決めた。
行き先はトルコ。
足は飛行機と鉄道と(夜行も含めた)バス。
アメリカ、カナダを旅行したときにはフル活用したレンタカーは、今回は使わない。
これでトルコ国内を10日間、自分たちのペースで回ってこよう、というわけだ。

「セン・デ・ギョル」ももちろん楽しみだが、調べれば調べるほど
おもしろそうなことが、美味しいそうなことが詰まっているトルコ。

気ままな二人の道中を、少しでも一緒に楽しんでいただければ幸いである。


(1) 出発編

2012年7月8日

初日。
第一日目の予定は、成田発トルコ航空の直行便でイスタンブールまで飛び、
そこで国内線に乗り継いでイズミル空港まで行く。
夜遅く着くので、そのまま空港そばのホテルに泊まる、それだけ。

飛行機だけでなく、今後の移動の機動性を重視し、
荷物は機内持ち込みサイズのスポーツバッグのみとした。
二人それぞれひとつずつ。夏の旅行ゆえ衣類がかさばらないのが助かる。

 

乗り換えは一度あるものの、今日は飛行機の移動だけなので
ちゃんと飛んでくれさえすればなにも心配することはない、と気楽に構えていた。
ところがこのあと、超初歩的なうっかりミスにより、
乗り継ぎの国内線に乗り遅れてしまうという失態を演じることになる。
もちろん、成田にいるときにはそんなことになるなんて
夢にも思っていなかったのだけれど。

 

トルコの通貨はトルコリラ。両替は成田でもできるようだったが、
レートを見てみると異様に悪いのでパス。
あとから比較するとトルコ国内での両替に比べて約1.4倍。悪すぎでしょ。

成田空港では、メールアドレスの登録が必要なるも、
登録するだけで無料のWiFiが利用できた。
iPod Touchから「いってきますメール」を日本に残る家族に送信。

定刻に搭乗。久しぶりの国際線だ。仕事ではなく遊びで行けるのはやはりうれしい。
トルコ航空では、エコノミークラスの客にも「スリッパ」と
「靴下付きの洗面セット」が一人ひとりに配られた。
スリッパなのに左右があるのがおもしろい。

いよいよ離陸。すると以前、発着時によく聞いた
「これからベルト着用のサインが消えるまでは、
 すべての電子機器の使用をお控えください」
というアナウンスがない。
しかも機内には大きくLiveTVとWiFiのサインまである。

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なんだかこのあたりいろいろ進化している模様。

さて、機内でのWiFi。
iPod Touchで試してみると、時々切れたりして安定しているとは言いがたいものの、
メールの送受信や静的なWebページを見る程度であればなんとか使える。
飛行機からのメールを受信すれば驚くに違いない、と、
ロシア上空から
「今、イスタンブールに向かっている機内。
 飛行機からメールが送れるなんてすごい時代だ」と
何人かにメールを送ってみる。
「すごいけど、いやな時代ですなぁ」との返信が来る。

 

機内食はトルコ料理系。
エコノミークラスの機内食なのにほんとうにおいしい。
現地での食事への期待がますます高まる。

ほぼ、定刻にイスタンブールに到着。
これなら乗り継ぎ便を早い便に変更できるかも、とチェックイン時に交渉。
一切荷物を預けていないので、このあたりも気軽にできる。
ところが早い便は満席とか。しかたなく予定通りの便にチェックイン。

 

待つ間にトルコリラに両替。
旅行中あちこちでこまめに両替してみようと思っていたので、まずは2日分程度だけ換金。
最初、金種がよくわからなかったため、紙幣の分だけ合っていることを確認して、
窓口を離れてしまったが、受け取った額を換金レシートと見比べると
小銭の部分で少し足りない。額にして300円弱。
「手数料分があるのかな」とレシートを見ても、
そのような数字は見当たらない。
私のすぐあとに換金した日本人二人組みも少なかったようで、
額を見ながら「窓口の人の個人的なチップになってるンじゃない?」と
同じような疑問を持っている模様。
次に両替するときは注意して確認してみることにしよう。

 

空港内の売店も一回りしてみたが、国内線ターミナルの店にはあまり魅力がない。
少し早いが、ゲートまで行って、そこで明日の予定を立てながら国内線を待つことにした。
ゲート番号を確認すると112。
妻も一緒に案内板を見て確認したので112が間違っていたはずはないのだが、
この余裕たっぷりの時間が、のちにトラブルを生むことになる。
ちょうどゲート方向からの夕日が眩しく、ゲートを背にして座ったことも、
あとで考えると問題発見を遅らせてしまった原因のひとつ。

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その時のターミナルに差す夕日はこんな感じ。
とにかく、早めに着いたので、安心して、ガイドブックを広げて
明日以降の大きな行程へのワクワク感を楽しんでいた。

イスタンブールまでの直行便には多く乗っていた日本人も、
当初はほとんどいなかった。

 

ところが、しばらくすると明らかにツアー客と思われる日本人が急に増えてきた。
トルコ旅行を検討した際、候補としてパックツアーもいろいろ調べたので、
ツアーがよくとるルートはだいたい掴んでいた。
なので、こんな会話を妻としていたのだが、あとで考えるとのんきなものだ。
「イズミルに飛行機で移動するツアーって珍しいよね」
「我々が見ていないような、高いツアーにはあるンじゃない」

時間的に余裕があったことと、国内線でトルコ語が主だったこともあって
アナウンスにはほとんど注意を払っていなかったが、
「ちょっと遅れているのかな」とちょうど思ったころ、搭乗案内があった。
流れにまかせて並ぶ。ふと見ると、前の人のボーディングパスが目に入った。
もちろん同じトルコ航空なので、チケットの色使いは同じ。
ところが、行き先の大きな文字が、見ると「カイセリ」になっている。

「えっ?!」

一瞬事態が飲み込めなかった。
「イズミル経由のカイセリ行き?」なんてバカな言葉が
とっさに浮かんだのだから不思議なものだ。
大阪行きの飛行機に乗ろうとしたら、前の人のチケットは札幌行き。
大阪経由の札幌行き?と思ったようなものだ。
この期に及んでも自分の目的は達せられると思っているところがめでたい。

「どういうこと?」
「カイセリ行き?」
「ゲートを間違えているンだ!」

慌てて案内板を見に行くとイズミル行きの飛行機は
ゲート番号が101に変更になっている。
トルコ語と英語を切り替えながらの表示になっていたが、
見たときはちょうどトルコ語。
英語に切り替われば、ステータスがまだ[搭乗中]なのかどうかがわかるが、
その時は英語に切り替わるまでの数秒すら待てずに走り出していた。

出発時間まで15分。
走れ!

運悪くゲート101はかなり遠い。すべての荷物を持って二人で走る走る。
荷物の重さがさすがに肩にこたえるが、今はとにかく101まで一刻も早く行かねば。
息を切らしてなんとかゲートに到着。出発10分前。

しかしそこに人影はなくゲートはClosedに。完全に閉まっている。
Closedのそばにいた職員にチケットを見せ
「これに乗りたい」と主張するも
「Closed。私は知らん」というジェスチャ。

「やっちまった!」

 

なんという初歩的なミス。カイセリと言えばカッパドキアの最寄り空港。
パックツアーのまさに典型的なルートじゃないか。
急に増えた日本人に
「ツアーですか。飛行機でイズミルに向かうツアーって珍しいですね」と
一言聞けば、トラブルを避けることができたのに、と悔やんでもあとの祭り。
そもそもゲート変更のアナウンスはあったのだろうか? 
単に聞き逃しただけなのだろうか?
ゲート表示も案内板も、再確認を一度もしなかった、というのも
気が緩んでいた証拠。

いまさらいろいろ考えてもしょうがない。
とにかく、今日中に、最悪でも明日の朝までには、イズミルに行きたい。
行けないと初日から大きく予定が狂ってしまう。
なんとかせねば。
飛行機なら1時間程度だが、バスで移動するとたしか8時間くらいはかかったはず。
時刻はもう夜8時すぎ。
よし、まずはトルコ航空のカウンタに行って、なんとか行く手段がないか交渉しよう。

一刻も早くトルコ航空のカウンタに行きたかったが、
出発ゲートは荷物のセキュリティチェックを通過して入ってきているため、
基本的には逆流ができない。
セキュリティチェックの人に事情を話し、横の扉から出してもらう。
トルコ航空のカウンタまで走り、担当者と話を始めたのがちょうど出発時刻のころ。

 

「出発時刻にはちゃんと空港にいた」をこちらに非がないことの
理由にできるような気がしたが、
まぁ、そんなことはこちらの勝手な思い込みで実質的になんの意味もない。
事情を話すと「そちらの都合で乗れなかったのだから、チケットオフィスに行って、
チケットを買い直してそれからもう一度ここに来い」とにべもない。

超初歩的なミスで乗り遅れてしまったことを自分としては承知していたが、
経験上、飛行機は窮状を訴えるとなんとかしてくれることが多い、と思っていたので
粘る覚悟はできていた。
とにかく
「妻と共にゲート番号を確認したら112だった。だからそこで待っていた。
 なんの通知もなく変更されたのでわからなかった。
 どうしてもイズミルに行きたい。なんとかしてほしい」と伝え、
その場での再発行、再調整のみを強く頼んだ。

一方で飛行機にテがなかった場合、今夜はイスタンブールに泊まるのか、
夜行バスでイズミルに向かうのか、どっちがいいのだろう、とも考えていた。

 

最初は事務的だった担当者も、チケットオフィスに行く気配を
まったく見せないこちらの態度を見てようやく手を動かし始めてくれた。
まずはどこかに電話。
電話先も「名前は**か」とチェックインしながら搭乗しなかった
乗客名を掴んでいる模様。
端末をカチャカチャとしばらく操作したのち、担当者は
私たちが手渡した乗り遅れたボーディングパスをゆっくり破り始めた。

「やったぜ!」

新しいボーディングパスが2枚、印刷されてでてきた。

「どうなるの?」

説明なしで作業を続けていた担当者はニヤニヤしながらゆっくりとした口調で言った。

「トゥモロウ」

「えっ! あした!?」

驚く私の顔をたのしむかのように新しいチケットを指さして
「今夜10時発。イズミル行き」

「なんだ冗談かよ、もうびっくりさせないでよ」
チケットを受け取る時、礼を言いながら、思わず両手で握手してしまった。

 

一時はどうなることかと思ったがとにかくよかった。
イズミル行きがまだ一便あったなんて、なんてラッキー!
結局、追加料金の請求もなく、そのままあとの便に変更してもらえた。
ふぅ。よかった、新しいチケットを買いに行かなくて。

「いきなり、やっちまったね」と夫婦で顔を見合わせてようやくひといき。

 

とりあえずホテル到着が深夜になってしまうので、ホテルに連絡することにした。
そもそも便変更に合わせて、空港への出迎えも変更してもらわなきゃだし。

電話するためにテレホンカードを購入。200円弱。ICカード。
ところが、これの使い方がわからない。
トルコ語でメッセージが出ているのだが、なにを言っているのかわからない。
米国で初めて公衆電話を使うとき、市外通話の先頭には1をつける、という
簡単なことを知らず、なかなかかけられなかった20年以上も前の記憶が蘇ってくる。
わからなければ聞く。
声をかけたトルコ人も、ICカードはほとんど使ったことがなかったようだが、
丁寧に教えてくれた。
「便が変更になり、深夜12時ごろになるが、迎えに来てもらえるか」
「問題ない。着いたらもう一度電話して」

 

念のため再度ゲート番号を見ると
「あれ?!また変わっているじゃないか!」
おもわず、どこからかドッキリカメラで狙われているのではないかと
あたりを見回してしまった。いったいどういう空港なんだ。

深夜に着くことになるせいか、ゲートにはそれこそ日本人はひとりもいない。
「イズミルに着いたら、今夜はどこに泊まるのか」
と横のトルコ人が話しかけてきた。
「私はイズミル市街にホテルを取っているが、
 イズミルの街まで、タクシーを割り勘でいかないか」との誘いであった。
空港のすぐそばのホテルを予約しているので、と断る。
こんなに夜遅くなると思ってはいなかったが、
空港のそばにしておいてほんとによかった。

 

再変更になったゲートから無事搭乗。
たった一時間かつ夜10時過ぎ発なのに、かわいいバスケットに入った夕食が出た。

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ナスのペーストが美味しい。

夜11時過ぎにイズミルの空港に到着。
するすると流れにのって動くと、あっという間に空港建屋を出てしまった。
電話をかけようとするも、建屋の外に公衆電話が一台もない。
逆流はできず、中に戻ろうとすると建屋に入るだけでも荷物検査をしなければならない。

しかたがないので、再度荷物検査をして建屋に入り、なんとか電話。
「5分程度で迎えの車が行くので外で待ってて」
「迎えの車だってどうやってわかるの」
「白いミニバス。車を見ればわかる」

 

空港に入ったついでに、翌日朝の電車の時間をインフォメーションで確認した。
11時過ぎなのにインフォメーションのカウンタがやっていたのには驚いた。
「地球の歩き方」によると、明日の目的地セルチュクまでの電車は本数が少ないのだ。
聞くと、8:30がありそのあとは10:43。
8:30に乗ろう、と予定が確定する。

ホテルは、いわゆる空港そばのビジネスホテル。機能的できれい。
WiFiも使えたので「トルコ到着」のメールを送る。
それにしてもここのWiFi。
アクセスのためのIDが私のパスポート番号で、パスワードが部屋番号。
チェックインのたびに登録している模様。そこまでしなくても、と思うが。

 

2012年7月9日

翌朝はバッフェ形式の朝食。

村上春樹さんが

僕がトルコでいちばん気に入ったもの、それはパンである。…
とにかくトルコのパンは文句なく美味しい。…
僕がいろんな国でこれまで食べたパンの中では
平均水準からするとトルコのパンがいちばん美味しかったんじゃないかと思う。

     村上春樹 「雨天炎天 -ギリシャ・トルコ辺境紀行- 」

と書いていたトルコのパン。噂通りパンがおいしい。

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旅行全期間を通じて、どこで食べてもパンの美味しさが裏切られることはなかった。

オリーブも8種類。

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はちみつは、蜂の巣をそのまま切り取って食べる提供方法。

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チャイもいただく。どれもこれもうまい。
昨夜はいきなり飛行機乗り遅れと言うトラブルがあったけれど、
さっ、今日は今日のスタートだ。

朝食を済ませ、チェックアウト。駅に向かった。
電車は、昨夜インフォメーションで聞いていたのでわかっている。
8:30次は10:43。駅に着いたのは8:10。

チケットを買うために窓口に向かう。窓口は2つ。
行き先を告げると、
「それは隣の窓口に」
と言われる。
どうも、短距離と中・長距離で分かれている模様。
中・長距離の窓口には4人程度の人が並んでいたのでその後ろについた。

 

ところが、ところが今度はその列がまったく動かない。
先頭の人がなにやら窓口で揉めている。
先ほど間違えた近距離窓口にはひとりも客がおらず、完全に空いているのに、
近距離窓口の人が停滞している隣の列をさばく気配は全くない。
一人も動かないまま、私の後ろにもどんどん人が並んでいく。

それでも先頭の人は動かない。8:20になり8:25になった。
間に合わない気配がヒタヒタと迫ってくる。
この電車を逃すと2時間以上も待つことになる。
こんな無機質な駅で2時間も待つのはあまりにも時間がもったいない。
列は長くなっているのに、だれも文句を言わずに並んでいるのはなぜ?

改札を強行突破して、チケットなしで乗り込めないか、様子を伺ってみる。
ヨーロッパの駅を始め、入場に関して厳しくない駅はけっこうある。
ところが、改札を見ると、横に制服姿の体格のいい女性が立っており、
厳しくひとりひとり回転バーでの入場をチェックしているではないか。
とても強行突破できそうにない。

 

「電車よ、遅れてくれ」と思ったりもしたが、そういう時に限ってちゃんと来るものだ。
ほぼぴったりの時刻に電車がホームに入ってくるのが見えた。
列は結局ひとりも進まないまま。さすがにもうダメだ。
2時間待ちかぁ。

諦めかけたそのとき、
改札のところにいた例の制服姿の女性が、改札横の小さな扉を開け、
列に並んでいる人たちに対して
「行けーっ!」という素振りを見せた。
「えっ! 行っていいの?」
列の人たちが、どぉーと走って流れ込む。
なにせホームにはもう電車が入っているのだ。
指定席とか、車両による違いがあるのかどうかの確認もできないまま、
とにかく電車に飛び乗った。
あっという間に発車。

「乗れちゃったよ」

 

最後はこうなることを列の人たちは知っていたのだろうか?
今となっては、一人ヒヤヒヤしていたのが妙におかしい。
2時間待たずにすんだのはよかったが、お陰で
一日にたった6本しかないセルチュク(エフェソス遺跡への最寄り駅)行きの
電車の時刻表も、ホームの様子も、一枚も写真が撮れなかった。

 

電車はあっと言う間にのどかな景色の中を走っていく。
乾いた土地に、とうもろこし、オリーブ、ひまわりなどの畑が続く。

まもなく検札がやって来た。
切符を持っていないことをなんて言えばいいのだろう。
まずは、と区間だけを伝えると、それ以上なんの質問もなく、
簡単に二人分のチケットを売ってくれた。
「なにこれ」と拍子抜け。ますます駅でのハラハラがむなしく思える。

「昨夜といい、今朝といい、これだから旅はおもしろい」
なんて言いながら、ふたりで買ったばかりの手書きのチケットを眺めたりしている。

 

車内は、男たちの話し声が尽きない。ほんとに休みなくしゃべっている。
少しすると、スィミットというパンを売りに来た。

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こんな感じ。
水とこれだけ。バターもジャムもつけない。そのままちぎって食べている。
われわれは朝食直後だったこともありパス。

セルチュク駅に到着。
荷物があると観光できないので、まずは今夜、宿を予約している
クシャダスという街までミニバスで行き、
宿に荷物を預けてから行動を開始しよう、と考えていた。

駅を出るといきなり目の前に遺跡が。駅前広場の駐車場横がもう遺跡?

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遺跡の上にはコウノトリが巣を作っているのが下からでもわかる。

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ミスバスに乗るために、オトガルと呼ばれるバスターミナルをめざす。
歩いて10分ほど。すでにかなり暑い。
途中、ペットボトルの水を買う。500ml2本で1TL(トルコリラ)。
その時の換金レートで約45円。2本で、だ。

小さなモスクがある。
ミナレットと呼ばれるモスク特有の尖塔が横にあるので遠くからでもすぐにわかる。
ブルーモスクのように巨大なモスクがトルコの観光用ガイドブックの
主役になっているが、地方には、小さなモスクがまさに至るところにある。

 

オトガルに到着。ドルムシュと呼ばれる満員になったら出発するミニバスを探す。
クシャダスに行きたい、と言うと、すぐに教えてもらえた。
「乗れ、乗れ」とせかされるように乗り込む。全部で十数人。
バスというより、ミニバンを一回り大きくした程度。
我々二人が乗り込むとまさに満員。なので、すぐに出発した。
思ったよりも距離があったものの、30分ほどでエーゲ海の港町クシャダスに到着する。
ただ、ホテルまではバスを降りてから30分ほども歩かないとならなかった。
暑い上に坂もあって、地図の距離感がどうもつかめない。

ホテルは、キャラバンサライと呼ばれる、昔シルクロードの隊商隊が宿にしていた
歴史のある建物。

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門のところには1610年とプレートがあるが、宿というよりも、一見、
城や要塞のように見える頑強な石造りで風格がある。

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隊商宿は、時の為政者が、盗賊などによる略奪の危険から隊商を守るために
交易路の各所に設けた宿泊施設。堅固な壁に囲まれた隊商宿は砦の役目もはたし、
中庭では、商取引も盛んに行われていたらしい。

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その中庭を宿泊客以外も観光で覗きに寄ったりしている。

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昼前で時間は早かったが、運良く部屋にチェックインすることができた。
荷物を置いて、さぁ、身軽になって動くぞ。

今日の目的は、「エフェソス遺跡」と「シリンジ村」
バスの移動でも乗り継げばなんとかなることはわかっていたが、
念のために確認するとホテルのお兄さんはタクシーを薦める。

もともとバスのルートを組み立ててこちらの希望通りに回ろうとすると
かなり非効率であることはわかっていたので、タクシーも料金次第では、と交渉開始。

当初、移動のためだけに使おうと思っていたのだが、
どうせ帰ってこないといけないので、それぞれの観光地を我々が観光する間、
待っていてくれると言うのだ。

我々夫婦はそもそもゆっくり観る方なので、通常よりもかなり時間がかかる。
2時間も3時間も待たせるのは気がひける、と言うと、
「金を払っているのだから、何時間でも待たせればいい」と
そんなの当然、気にすることはない、という。

こちらとしてはこの程度の範囲内であれば、という上限を設けて話を進めたのだが、
思ったよりあっさり折り合いがついてしまったので、頼むことにした。

 

実は、簡単に折り合いがついたのには理由があったのだが、
「交渉成立」と思ったこの時点ではそれに気づいていなかった。
と言うか、「トルコならではの」かなり重要なことを聞き落としていた。
値段交渉で「ここ」を聞き落とすと言うのは、後から考えるとありえないように思うが、
その時は思い込みもあり、まったく聞こえていなかった。
「ここ」とは何か。
支払う時になって、ひとつ勉強することになる。

 

というわけで、いよいよ観光スタート。
まさか出発編がこんなに長くなるなんて。
まだ1.5日分。観光はこれからだが、長くなってしまったので、
今日はここまで。

 

続きは(2)エフェソス遺跡編で。(旅行記の目次はこちら

 

 

 

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